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第2話 値踏みする商人

 王都を出る馬車に、見送りはいなかった。


 レオノーラ・アーレンスは、それを淡々と受け止めた。役目を解かれた者に、門前の挨拶は要らない。荷は鞄ひとつ。手帳と、着替えと、いくつかの書きつけ。


 (軽い。これだけだったのか)


 街道を三日。北へ抜けると、城壁を持たない街が現れた。

 フリーセン。どの国にも属さない、自由交易の都市。各国の使節と商人が、旗ではなく利で集まる場所だ。


 城門の代わりに、為替を扱う両替商の看板が並ぶ。通りには六つの言語が飛び交っていた。レオノーラは、そのどれもを聞き分けられた。


 (メーアの訛り。サヴァルの隊商。あちらはヴェルダンの紋……みな、ここでは旗を畳んでいる)


 角の卓で、メーアの商人とサヴァルの隊商頭が、低い声で値を競っていた。互いに譲らない。だが互いに、相手を席から立たせない。ここでは、決裂すらも一種の取引だった。


 胸の奥が、わずかに緩んだ。気負いではなく、ただ静かに。

 王宮では、彼女の言葉のひとつひとつが国の重みを背負っていた。ここでは、誰も彼女が誰だったかを知らない。それは、剥がれ落ちるような軽さだった。


 (さて。この街では、私の言葉はいくらで売れるのか)


 宿を探すより先に、彼女は通りで最も大きな商会の門を見つけた。ロート商会。石造りの帳場が、そのまま小さな砦のようだった。


 取り次ぎを頼むと、思いのほか早く奥へ通された。


 帳場の主は、白髪まじりの恰幅のいい男だった。ヴェルナー・ロート。羽根ペンを置きもせず、彼は顔も上げずに言った。


「座りな。歩き方で、おおよそ見えてる」


 レオノーラは静かに腰を下ろした。


「歩き方、でございますか」


「卓の前に立ち慣れた足だ。だが帯刀はしてない。荷は軽い。供もいない」


 ヴェルナーは、ようやく顔を上げた。値踏みする目だった。馬の歯を見るような、布の織りを指でしごくような、そういう目。


「外で何を回してた女だ、って詮索はしない。どうせ話さんだろう。だが、あんたが回してたモノの大きさは、背中に書いてある」


 レオノーラは答えなかった。否定も、肯定も。


「ヴェルダンの隊商頭が、去年からうちの卓で詰まってる案件がある」ヴェルナーは続けた。「席をどう作れば話が進むか、誰も読めん。あんた、ああいうのを片づけてた口だろう」


 彼は、彼女の前職を一度も口にしなかった。どこの宮廷か、なぜ流れてきたか。商人にとって、来歴は値段ではない。値段は、今この手が何をできるか、それだけだ。


 (……見抜くのが早い。中身ではなく、価値だけを)


「で」


 ヴェルナーは羽根ペンを卓に転がした。


「いくらの話だ?」


 部屋の空気が、一度止まった。来歴ではなく、稼げる額だけを、彼はまっすぐに量っていた。


 レオノーラは、わずかに目を伏せた。


 (買い叩かれる前に、こちらの値を一度だけ示す)


「歩合で結構です」彼女は言った。「まとめた案件の利の、二割。ただし――纏まらなければ、一銭も要りません」


 ヴェルナーの眉が、片方だけ上がった。


「自分の値段を、結果に賭けるのか」


「払う側が、いちばん納得する形ですから」


 数秒、ヴェルナーは彼女を見た。

 それから、低く笑った。


「いい。雇おう。今日から渉外だ」


 即決だった。

 あまりに、早すぎるほどに。


 レオノーラは一礼しながら、その早さを記憶の隅に置いた。


 (……二割を渋らなかった。商人が、初対面の手に。なぜ)


 ヴェルナーの顔は、もう帳簿に戻っていた。読み取れるものは、何もなかった。彼女は、それ以上は問わなかった。問うべき時ではない。


 帳場を出ると、廊下で青年がひとり、所在なげに待っていた。


「あの、渉外の方……ですよね」


 日に焼けた、足の速そうな体つき。腰に伝令の鞄の跡がある。


「親方から、あんた付きの書記と連絡役にって言われました。ニコっす。元は国境の伝令で。……あ、敬語、苦手なんで、すんません」


「レオノーラです。よろしく」


 ニコは荷を持とうとして、それが鞄ひとつしかないことに目を丸くした。


「えっ、これだけ? 渉外って、もっとこう、書類の山を引きずってくるもんかと」


「書類は、頭の中にあります」


「あたまの……」ニコは目を瞬かせた。「あの、ひとつ訊いていいすか。さっきの隊商の話、なんで一年も詰まってたんすか。みんな、どこで揉めてるのか分かってたんでしょ?」


 素朴な問いだった。だが、芯を突いていた。


「揉めている場所が、わからないから、詰まるのです」レオノーラは言った。「みな、値段で揉めていると思っている。実際は、誰が先に席に着くかで揉めている。サヴァルの民は、面子で動きますから」


「席順で……一年?」ニコは信じられない、という顔をした。「銭の話じゃなくて?」


「銭で折り合っても、席で恥をかかされたと感じれば、卓を蹴る。逆に言えば、席さえ整えれば、銭は後からついてきます」


 ニコは、ぽかんとした。それから、感心したように頭を掻いた。


「……足の速さなら負けないんすけど、そっちはさっぱりだ」


「足は、これから要ります。歩いてくれる人が、いちばん助かる」


 ニコの顔が、ぱっと明るくなった。


 *


 同じ頃。王宮、外務卿の執務室。


 ガルム伯爵は、卓の隅に積まれた分厚い綴りを、煩わしげに見やった。


「引き継ぎ書、とか言ったか。あの女の」


 手に取ると、ずしりと重い。四十二頁におよぶ、几帳面な筆。各国の慣習、席次、禁句、要人の好悪。条約の期限と段取り。


 ガルムは、ぱらりと一頁だけめくった。びっしりと書き込まれた細字を見て、すぐに閉じた。


「外交は、紙でするものではない」


 彼は綴りを、机のいちばん下の引き出しに放り込んだ。鍵をかけることすら、しなかった。読む価値もない、というように。


 (――この一冊が、何頁めから国を傾けるか)


 それを知る者は、もうこの王宮にはいなかった。


 *


 フリーセン。ロート商会の帳場。


 翌朝、レオノーラがニコと街の卓を見て回って戻ると、ヴェルナーが彼女を呼び止めた。


「渉外。さっそく、ひとつ預けたい案件がある」


「うかがいます」


 ヴェルナーは、卓に一枚の覚書を置いた。だが、その手はすぐには離さなかった。


「言っておくが、これは……うちの誰も、纏められなかった話だ」彼は低く言った。「水の取り分で、二つの勢力が、もう十年いがみ合ってる。旧市街の運河と、新市街の井戸だ。どちらも、自分こそ譲ってやってる側だと思ってる。間に立った街の長老が、これまで三人、匙を投げた」


「内容を、拝見しても?」


 ヴェルナーは、ようやく手を離した。


「読んでから、降りるなら降りていい。賭けは、あんたの言い分通りだ。纏まらなきゃ、一銭も払わん」


 レオノーラは覚書を引き寄せ、目を落とした。


 文面は、もつれた糸のようだった。だが、もつれているのは糸ではない。糸を握る手だ。


 (旧い家は面子。新しい邦は実利。……握る手によって、欲しいものが違う)


 彼女は、ただ一度だけ、覚書の一行に指を置いた。


「ここを、書き換えれば足ります」


王宮で読まれなかった一冊と、フリーセンで読み解かれた一行。

同じ「文面」でも、誰の手にあるかで、重さが変わります。


次話、レオノーラが、十年もつれた糸に、最初の一手を入れます。

ヴェルナーが彼女を即決で雇った理由は――もう少し、伏せておきます。


続きが気になる方は、ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

それでは、次の卓で。


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