第1話 完璧な調整役
この物語は、
婚約破棄された令嬢が、感情的に復讐する話ではありません。
主人公は泣きません。
声も荒げません。
その場でざまぁもしません。
彼女がしたのは、
役目を終えた場所から、静かに去ること。
その結果、
切った側が「何を手放したのか」に、
遅れて気づいていく物語になります。
・復縁なし
・主人公は最後まで冷静
・ざまぁは少しずつ効きます
ゆっくりとした逆転を、どうぞお楽しみください。
【本文】
ヴェルダンの使節が席を立つ三秒前に、レオノーラ・アーレンスは口を開いた。
「使節閣下。次の議題は、こちらの卓を改めてからにいたしましょう」
それだけだった。
たったそれだけで、強国ヴェルダンの大使オズワルドが、椅子に戻す腰を止めた。
――席次の問題。あと一言、王太子が続けていれば、彼は侮辱と受け取って退席していた。
レオノーラは内心で短く確認する。
(火種、消去。次は茶の出し方)
彼女は王太子ロデリック・リーゼンの婚約者だった。表向きは、ただの令嬢。だが王国の対外交渉は、条約の文面から大使の好む茶の温度まで、すべて彼女の手帳の中にあった。
オズワルドが小さく笑い、卓に戻る。
「アーレンス公爵令嬢は、相変わらず話が早い」
「恐れ入ります」
レオノーラは淡々と頭を下げた。それ以上でも、それ以下でもない。
使節を見送り、控えの間に戻る。すれ違いざま、ロデリックが軽く言った。
「助かったよ、レオノーラ。君がいると、外のことは何も心配しなくていい」
「務めですから」
彼女は微笑む。期待しなければ、失望もしない。長いあいだ、そうやってここに立ってきた。
――それでいい。
そこへ、白い衣の少女が控えめに入ってきた。
「ロデリック様……あの、お話が」
ミレーユ・サンク。
六カ国の言葉を操ると評判の、男爵令嬢。ロデリックの表情が、わかりやすく緩んだ。
「ミレーユ。ちょうどいい、君に伝えたいことがあったんだ」
ロデリックはレオノーラに向き直り、晴れやかに告げた。
「レオノーラ。君との婚約は、解消する」
控えの間の空気が、止まった。
「君は優秀だ。だが……いつも正しくて、いつも冷たい。臣下も使節も、君の前では息が詰まると言う」
ロデリックはミレーユの肩にそっと手を置いた。
「これからの外交は、もっと心の通うものにしたい。ミレーユは六カ国の言葉を話せる。外務はガルム伯爵に任せ、ミレーユが補佐につく。君は……もう、無理をしなくていい」
レオノーラは、ロデリックの顔を見た。
悪気はないのだ。彼は本気で、よかれと思っている。それが、いちばん厄介だった。
彼女は、ただ一度だけまばたきをした。
「承知いたしました」
反論はしなかった。弁明も、涙も。
役目を解かれたのなら、ここから先は自分の領分ではない。
扉のそばに控えていたガルム伯爵が、満足げに胸を張る。新しい外務卿。半年前、交易許可の差配を欲しがって、レオノーラに断られた男だった。
(……なるほど)
レオノーラは、その表情を一秒だけ記憶した。それから手帳を閉じ、机の引き出しから分厚い綴りを取り出して、卓の上に置く。
「引き継ぎ書です。各国の慣習、席次、禁句、要人の好悪。条約の期限と更新の手順。すべてここにあります」
ガルムは綴りを一瞥し、鼻で笑った。
「ご丁寧に。だが外交は紙ではなく、人と人の心でするものだよ、お嬢さん」
「……そうですか」
レオノーラは綴りから手を離した。深く追わなかった。読む読まないは、もう彼の領分だ。
彼女は一礼し、扉へ向かう。ロデリックとミレーユが寄り添って何か話している。誰も、振り返らない。
扉に手をかけたところで、レオノーラは足を止めた。
ひとつだけ、職務上、伝えておくべきことがある。私情ではなく、事実として。
「ロデリック様」
「ん? どうした」
「ヴェルダンとの平和条約ですが」
彼女は静かに振り返った。
「更新の期限は、来月です。手続きには、相手国の慣習に沿った段取りが要ります。引き継ぎ書の、四十二頁に」
ロデリックは、きょとんとした。ガルムも、ミレーユも。
「……来月? そんな話、聞いていないが」
「今、お伝えしました」
レオノーラは小さく頭を下げる。
「では、隣国とのお話は、どなたが進められますか」
答えは、返ってこなかった。
誰一人、その期限の意味を、わかっていなかった。
彼女は扉を開け、王宮を出た。
空は、よく晴れていた。
背後で、何かが静かに傾き始めた音を、彼女だけが聞いた気がした。
――さて。
(次の卓は、どこにしようか)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
レオノーラは戦いません。叫びもしません。
ただ、自分の領分を静かに手放しただけです。
けれど、彼女が閉じた手帳の中には、
王国がこれから「思い出すことになるもの」が、すべて入っていました。
次話、彼女は王宮を離れ、ある街にたどり着きます。
そこで彼女を待っていたのは——彼女の値段を、一目で見抜く男でした。
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それでは、次の卓で。




