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第9話 卓の外から

 フリーセンには、噂が荷とともに運ばれてくる。


 穀物の袋に紛れて、絹の反物に巻かれて、両替商の帳簿の行間に挟まって。荷が動けば、人の口も動く。その朝、ロート商会の二階に届いた噂のひとつに、レオノーラ・アーレンスの名があった。


「話の早い交渉人が、フリーセンにいるそうだ」


 帳場の下で、ヴェルナー・ロートが算盤を弾きながら言った。


「条文を一目見れば、相手が条の裏で何を欲しがっているかを当てる。纏まらなければ一銭も取らん。そういう女が、この街にいると――もう、ヴェルダン方面まで流れている」


「噂は、足が速いのね」


 レオノーラは便りから目を上げなかった。


「ニコより速いかもしれません」


 戸口でニコが、心外そうに口を尖らせた。


「おれ、けっこう速いっすよ」


 ヴェルナーは低く笑い、それから声を落とした。


「で――その噂を聞きつけた口が、ひとつ。ヴェルダンの商人筋だ。北方の茶を扱う、古い商会の番頭でな。条約だの何だのの大きな話じゃない。手元の交易の揉め事を、一度、見てほしいと言ってきた」


「ヴェルダンの」


「中立の街だ。誰が誰に会おうと、咎める者はいない。……会うかね」


 レオノーラは、しばし手の中の紙を見ていた。


 (ヴェルダン。隣国にして、来月の相手)


 王宮の卓は、もう手の届かないところにある。けれど、フリーセンの卓は、王宮の卓ではない。ここは中立で、ただの一交渉人として、誰とでも向き合える場所だった。


「お会いします」


 彼女は紙を伏せた。


「ただ、こちらの作法で迎えさせてください」


 *


 ヴェルダンの番頭が通されたのは、ロート商会の奥の小間だった。


 席に着く前に、番頭の足が止まった。窓を背にする席が、客のために空けられている。


 (窓を背に……退路の取れる向き)


 彼は無言で、その席に腰を下ろした。ヴェルダンでは、客を窓に背を向けて座らせるのが敬意だ。背後に壁を負わせず、退こうと思えばいつでも退ける向きに置く。それを心得ている者は、ヴェルダンの外でほとんど見たことがない。


 卓に、茶が運ばれてきた。くすんだ緑の、香りの薄い茶。ヴェルダン北方産の〈灰緑かいりょく〉だった。


 レオノーラは番頭の前に椀を置き、自分の手は引いた。


「どうぞ、先に」


 番頭の眉が、わずかに動いた。


 主人が先に口をつければ、それは毒見になる。客への侮辱になる。だから客に最初の一口を譲る。――それが当然のように行われたことに、彼は驚いていた。


 彼が一口含むのを待って、レオノーラは静かに二煎目の支度をした。一煎目は香りを開いて捨て、淹れ直したものを供する。上位の者が下位の者にそうするのではない。敬う相手に、そうする。


「……あなたは」


 番頭が、ようやく口を開いた。


「ヴェルダンの者か」


「いいえ。リーゼンの生まれです」


「リーゼンの。それで、この茶を」


 彼は椀を見下ろした。それから、低く笑った。


「失礼ながら、リーゼンの王宮で茶を出されたことがある。香りの強い、赤い茶だった。席は西を向いていた。あのときは、退席する口実を探すのに苦労したものだ」


 (西向き。香りの強い赤茶)


 それは、あの最初の卓だった。王宮が出した茶であり、王宮が向けた席だった。レオノーラはそれを口にせず、ただ椀を温め直した。


「作法は、相手の国の言葉です」


 彼女は言った。


「言葉の通じぬ相手とは、商いも難しいでしょう」


 番頭は、しばらく彼女を見ていた。値踏みする目ではなかった。むしろ、安堵に近いものだった。


 *


 揉め事そのものは、小さなものだった。


 ヴェルダンの商会が、フリーセンの倉庫の使用をめぐって、賃料の取り決めで折り合えずにいる。番頭が持ち込んだ証文を、レオノーラは一読した。


「賃料の額は、双方とも譲れないと言っておられる。けれど、争っているのは額ではありません」


「では、何を」


「支払いの時期です。御社は荷の入る秋に払いたい。倉庫主は、春に欲しがっている。額を動かさず、支払いを二度に分ければ、双方の手元は回ります。証文の一行を、こう書き換えれば収まります」


 彼女は筆を取り、欄外に短く書き添えた。番頭はそれを覗き込み、しばらくして、深く息を吐いた。


「……これで、ヴェルダンの面子も立つ。額を引かされたのではない、と言える」


「ええ。どちらも、引いてはおりません」


 番頭は証文を畳み、懐に収めた。立ち上がる前に、もう一度だけ、卓の茶を見た。


「ひとつ、伺ってよいか。なぜ、ここまで」


「私の領分が、ここだからです」


 レオノーラは、それだけ答えた。


 *


 番頭がフリーセンを発った数日後。


 ヴェルダンの大使館の一室で、オズワルド・カイは一通の私信を読んでいた。北方の茶を扱う商会から、番頭づてに回ってきた便りだった。商いの首尾を報せる、何の変哲もない文面。だが、その末尾に、一行が添えてあった。


 ――フリーセンに、こちらの作法を知る交渉人がおります。リーゼンの生まれ、と。


 オズワルドは、その一行を二度読んだ。


 (リーゼンの生まれで、ヴェルダンの作法を知る)


 彼は、リーゼンの王宮を思い出していた。あの香りの強い赤茶。西を向いた席。足元を見て無理を通すには、好都合な相手だった。慣習に疎い王宮ほど、御しやすいものはない。


 だが、この交渉人は違う。窓を背にする席を空け、客に先に茶を含ませ、二煎目を供す。それは、ヴェルダンの卓を知る者の所作だった。


「リーゼンの……交渉人、か」


 オズワルドは便りを置いた。指が、卓の縁を一度叩いた。


 名は記されていない。彼はまだ、それが誰であるかを結びつけてはいなかった。ただ、奇妙な引っかかりだけが残った。リーゼンの王宮には、もうあの女はいない。そう聞いている。なのに、リーゼン生まれの誰かが、フリーセンで、ヴェルダンの作法を当然のように使っている。


 (卓の外に、いるのか)


 彼は窓の外を見た。フリーセンの方角に、低く雲が流れていた。


 来月、ヴェルダンとリーゼンの間で、ひとつの条約が期限を迎える。その手順を、王宮はまだ揃えられずにいる。それはオズワルドの耳にも、薄々入っていた。属人の外交ほど、人を一人抜けば崩れるものはない。崩れた卓は、ヴェルダンにとって好機のはずだった。


 だが今、別の名が――いや、名のない誰かが、卓の外から、こちらの作法に通じている。


「番頭を、もう一度フリーセンへやれ」


 オズワルドは、控えの者に言った。


「その交渉人について、もう少し聞いてこい。誰の下で、何をしているのかを」


 *


 フリーセンの夜。


 レオノーラは手帳を開き、その日に動いた事実を書き留めていた。ヴェルダンの番頭の名。倉庫の証文の控え。書き換えた一行。


 ニコが茶を運んできて、卓の端に置いた。


「レオノーラさん。ヴェルダンの人まで、ここに来るんですね。……なんか、変な感じっす。本当は、ヴェルダンってリーゼンの隣の、その、こわい国なんですよね」


「こわい国かどうかは、卓の向きで決まるものではないわ」


「卓の向き?」


「席をどちらに向けるか、茶を誰から先に飲むか。たったそれだけで、相手は敵にも客にもなる」


 レオノーラは手帳の頁を繰った。


「王宮は、それを失礼と知らずに犯した。私は、ただ作法どおりにしただけ」


 ニコは茶を一口飲み、それから、ふと真顔になった。


「でも、それって……変じゃないっすか。リーゼンの卓には、ヴェルダンの人は来ない。来ても、すぐ帰っちゃう。なのに、ここには来る。卓の外にいるはずのレオノーラさんのほうが、ヴェルダンに通じてる」


 レオノーラは、手を止めなかった。


 (卓の外から)


 王宮の卓には、隣国の使節が立たない。けれど、卓を退いたはずの自分のもとには、隣国の番頭が訪れ、隣国の大使が関心を寄せ始めている。立場は、いつのまにか逆さになりつつあった。


 彼女は手帳を閉じ、灯りを少し落とした。


「ニコ」


「はい」


「変かどうかは、私の領分ではないわ。ただ――」


 彼女は窓の外、ヴェルダンの方角を、一度だけ見た。


「卓の外にいる者のほうが、卓の中の事情に通じている。それが、いつまで続くかしらね」


 ニコは、その言葉の意味を、まだ半分しか掴めなかった。けれど、レオノーラの横顔が、どこか先を見ているのは分かった。


 フリーセンの灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。


 来月という言葉は、王宮の机にも、この街の手帳にも、同じ重さで残っていた。ただ、その重さを正しく量れる者が、今どちらにいるのかは――もう、はっきりしていた。


 今回は、ヴェルダンのほうから、彼女のもとへ歩いてきました。卓を退いたはずの彼女が、隣国の作法に当然のように通じている――その姿に、大使オズワルドが、わずかに目を留め始めます。


 立場が、静かに逆さになっていきます。次の卓で、その逆転が少しずつ形になっていくのを、ブックマーク・評価とともに見守っていただけると嬉しいです。


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