第59話 読み手は、卓
ケラーは、その一脚に座った。
座る前に、抱えていた束を卓へ置いた。麻紐で括られた、縁の茶色い紙の束である。埃が、卓の上にうっすらと広がった。誰も、それを払わなかった。
「わしは、五十年、答えだけを書いてきた」
老人は、そう切り出した。
「四日で返し、一行で済ませた。理由は書かなんだ。書いても読めまいと思うたし、読めぬ者に説くのは、時の無駄だと思うておった。……今日は、理由を述べに来た」
彼は、掛け金の条項の写しを引き寄せた。それから、束の中から一枚を抜き、二つを並べた。
「『己の分』。この語は、古語では、こう書く」
ケラーは、卓の上に指で形をなぞった。虫の這った跡のような形が、木目の上に見えないまま描かれた。
「この字は、上が『土』、下が『手』だ。土から手で取り出すという形をしておる。ゆえに『産する分』と読む。……ここまでは、わしが五十年、書いてきたことだ」
「はい」
「だが、この字には、続きがある」
老人は、束の別の一枚を出した。
「同じ字が、二百年前の商いの証文にも出てくる。そこでは、土から取り出す話ではない。荷を蔵から出す話に使われておる。土でも手でもよい。『そこから出した分』という形だけが残って、中身が抜けたのだ。……わしの祖父は、古いほうを採った。父も、わしも、そうした。古いほうが正しいと、思うてきたゆえ」
部屋は、静まりかえっていた。
「では、あなたのご裁定は、誤りだったのですか」
ハーロが、慎重に尋ねた。ケラーは、首を横に振った。
「誤りではない。古いほうを採るのも、一つの筋だ。……だが、それは筋であって、答えではなかった。わしは五十年、筋を、答えの顔をして送ってきた」
ヨナが、身を乗り出した。
「ケラー殿。伺ってよろしいか。……二百年前の証文のほうを採ると、山にとって、どうなります」
「『蔵から出した分』になる。あんたらは、去年、蔵から何も出しておらんな」
「はい」
「なら、積まん」
ヨナは、しばらく黙っていた。それから、右手を左肩に当て、深く頭を下げた。
「――分かりました」
束から立った埃が、高い窓の光の帯を、ゆっくり横切っていった。ケラーは二枚の紙を並べたまま、どちらにも手を置かずにいる。五十年ぶん字を追ってきた指が、今日は、何も指さなかった。
誰も、古語を読めていない。それでも、部屋の全員が、いま「分かった」と言える場所にいた。読めたからではない。理由を、聞いたからだった。
(読めなくても、筋は検められます。……この方が五十年、渡さずにいたのは、答えではなく、筋のほうでした)
*
「見事なお話でございました」
オズワルドが、静かに割って入った。
「ですが、ケラー殿。あなたは、いつまでも、そこにおられるわけではない」
「おらん。あと、十年もおらんだろう」
「では、二十年後は」オズワルドは、六枚目の白紙を指した。「今日この紙に書き取った読みも、二十年後には、いまの言葉で読めなくなる。そのとき、最後に誰が決めるのです。――決める者のない条約は、条約ではございません」
誰も答えなかった。ハーロが算盤の玉に指を置き、置いたまま動かさない。
そのとき、部屋の隅で、小さな声がした。
「……あの」
ミレーユ・サンクだった。全員が振り向いたので、彼女は一度うつむき、それから、思い切ったように顔を上げた。
「二十年後にも、人は、この条文を使っております」
「はい?」
「使うのです。港でも、蔵でも、山でも。使う人が、言葉を変えるのです。書物が変えるのではありません。……条約を守るのは、書物ではなく、人でございます。ですから、読みは、人の集まるところに、置いてくださいませ」
彼女は言い終えて、赤くなってうつむいた。レオノーラは、その言葉を、両手で受け取るようにして聞いた。
*
「オズワルド様」
彼女は、立ち上がった。
「二十年後に決める者を、いま、決めておきます」
「ほう。誰を」
「そのときの、六人でございます」
オズワルドの眉が、わずかに動いた。
「読み合わせは、一度きりではございません。十年ごとに、同じことをいたします。条文は、変えません。変えるのは、読みだけ。そのときの六人が、そのときの言葉で、同じ一行を読み合わせ、頷いた読みを、次の紙に書き取ります」
「……紙が、増えるだけでは」
「増えます。十年ごとに、一枚ずつ。二十年後の者は、二枚を見比べられます。五十年後の者は、五枚を。――言葉がどう動いたかまで、そこに残ります」
「最後に決める者は、誰です」
「おりません」レオノーラは、はっきりと言った。「決めるのは、いつも、そのときの卓でございます」
*
オズワルドは、しばらく彼女を見ていた。それから、慇懃な笑みを浮かべた。まだ、終わっていない顔だった。
「では、伺いましょう。十年ごとの、その席。――誰が、招集をかけるのです」
部屋の空気が、また張った。
「招集する者は、日を選べます。人を選べます。場所も選べます。……上座を椅子から消しても、招集する者の手に残る。去年、あなたが山でお会いになった評議長も、そうやって、卓を握っておられたはずだ」
(――そこまで、御覧になっていましたか)
レオノーラは、内心で敬意を払った。それから、六枚目の白紙を裏返した。裏には、彼女があらかじめ書いておいた一行があった。
「招集は、いたしません」
「なんと」
「日付が、呼びます」
彼女は、その一行を読み上げた。
「『この協定の読み合わせは、締結の日より十年ごとの、同じ日に開く』。――誰も呼びません。呼ばれもしません。その日に、旧議場の扉が開いているだけでございます」
「来ぬ家があれば」
「来ぬ家の言葉は、その十年、前の読みのままになります。罰ではございません。読み直しに来なかったのですから、読みは、前のままです」
オズワルドは、口を開きかけて、閉じた。彼はゆっくりと椅子を引き、立ち上がった。そして、卓の上の五通を――同じ高さに揃った五通の縁を、長いあいだ見ていた。
「……私は、上座を譲るのが礼だと申しました」
「はい」
「上座が無いのであれば、譲るものも、ございませんな」
オズワルドは、外套の裾を正し、五つの家それぞれへ、来たときと同じ順序で一礼した。
「ヴェルダンは、同文に加わります。ヴェルダンの言葉の写しを、六通目としてお納めいただきたい。――正文でございます。ほかの五つと、同じ高さの」
ヨナが、はじめて笑った。ハーロが、算盤の玉を五つ、まとめて弾いた。
*
ケラーが、卓の上の束の紐を解いた。
「アーレンス殿。これを、置いていく」
「これは」
「読み方の覚え書きだ。祖父と、父と、わしが、三代かけて書いた。どの崩しが、どの字か。息継ぎで、どう変わるか。……書庫の外へ出したことは、一度もない」
老人は、束を卓の中央へ押した。
「これがあれば、十年かからん。七年で読める。わしの甥に、写しを取らせる。……三人が、五人になる。五人になれば、わしの読みを、誰かが疑える」
「ケラー様」
「疑われるのは、業腹だ」ケラーは、しわの中で少し笑った。「だが、疑われぬまま八十七度も勝つよりは、ましだろうよ」
レオノーラは、深く頭を下げた。今日、彼女が卓の上で下げた、いちばん深い礼だった。
*
読み合わせは、その日の午後から始まった。
第一条、第一行。ケラーが最初に読む。古語ではこう読める、理由はこうである、と述べる。次に五つの家が、それぞれの言葉で同じ一行を読む。最後にミレーユが、その語が今どう使われているかを添える。
六つの声は、同じ一行を、六度、違う響きで通り抜けていった。山の言葉は子音が硬く、市の言葉は語尾が伸びる。同じ意味を運んでいるのに、運び方が、これほど違う。ニコの筆は、その六度ぶんを待ってから動いた。窓の光は、条を一つ越えるたびに、卓の上を少しずつ滑っていった。
そして、六人に問う。
「――同じ意味でございますか」
六つの頷きが返るまで、その一行は、通らない。
(時は、かかります。ひと月では、済まないかもしれません。……けれど、この一行は、二十年後の誰かが、開くことができます)
ニコが、六枚目の紙に、最初の一行を書き取った。
誰も古語を読めないのに、部屋の全員が「分かりました」と言える場所に立ちました。読めたからではなく、筋を聞いたからです。
ケラーが持ってきたのは、答えではなく理由でした。「上が土、下が手。ゆえに産する分」――五十年ぶん送り続けてきた答えの、その裏側。
オズワルドの詰めは二段構えでした。「二十年後、最後に誰が決める」。答えは、ミレーユが持っていました。条約を守るのは書物ではなく人。ならば読みは、人の集まるところに置く。――十年ごとに、そのときの六人が読み直す。最後に決める者は、いません。
最後の一手は、「では誰が招集をかける」。招集する者が上座だ、というのは、去年サヴァルで見た構図そのものです。答えは一行。「日付が、呼びます」。
礼の人は、礼のまま引きました。上座が無いなら、譲るものもない。ヴェルダン語は六通目の正文になります。ほかの五つと、同じ高さの。
次回、第二部最終話。「言葉の卓、その先へ」。「日付が、呼びます」で背筋が伸びた方、評価をひとつ頂けると嬉しいです。




