↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/60

第60話 言葉の卓、その先へ

 読み合わせが終わったのは、三十七日目の夕方だった。


 旧議場の卓の上には、六通の写しと、六枚目の紙が残った。紙はもう白紙ではない。表も裏も、細かい字で埋まっている。頷きの取れた読みが、条ごとに、行ごとに、書き取ってあった。


 最後の一行を読み終えたとき、誰からともなく、六人が同時に息を吐いた。ヨナが右手を左肩に当て、ハーロが算盤をようやく袋へ戻した。ベルガーは目を赤くしていた。三十七日のうち、彼はひと言も欠席しなかった。


「では、署名を」


 レオノーラが言うと、ヴェルナーが笑って首を振った。


「先に、腹ごしらえだ。三十七日だぞ。老いぼれを殺す気か」


 *


 署名は、翌朝に行われた。


 六通の写しを、円卓の上に、同じ高さで並べる。六人が、それぞれの写しの前に立つ。合図はない。旧議場の鐘が鳴り終わったところで、六本の筆が同時に下りた。


 同文協定。正文は六つで、上座は無い。


 読み合わせの記録は、六枚目として綴じ、同じものを六通、写し取った。どれを原本とするかは、決めない。どの国にも、どの都市にも、どの書庫にも預けない。六通が、六つの手元にあるだけである。


「原本が無いのは、落ち着かんな」ヴェルナーがぼやいた。


「無いほうが、失くしません」レオノーラは言った。「一つしかない紙は、燃えます。六つある紙は、燃えません」


 *


 署名の日の晩、イレーネが酒を抱えて上がってきた。


「はっ、三十七日ときたもんだ。あんたら、正気かい」


「正気でございます」


「まあいいさ。市場じゃ、あんたのおかげで大損した連中がいてね」イレーネは椅子に沈み込み、痛快そうに指を鳴らした。「蔵が止まってるうちに、鉄の証文を買い集めてた連中さ。ひと月かかると踏んで、三月ぶん買い込んだ。……終わっちまったからね、あれ。抱えた紙が、ただの紙になった」


「打ってはおりません」


「知ってるよ。あんた、名前を控えただけで、一度も動かなかったろう」イレーネは酒を注ぎ、それから、少しだけ声を落とした。「……あの訳し手の娘さ。市場で、荷役に混じって、下手くそな山の言葉で聞き取りをやってた。三日も。あたしゃね、ああいうのを見ると、昔のことは、まあ、いいかって気になるんだよ」


「イレーネ」


「言わないよ。言ったからには、もう言わないって、言っただろ」


 *


 三日後、書庫から一通が届いた。ケラーの字は、思っていたより大きかった。


『甥に、覚え書きの写しを取らせている。


 あの子は、七年で読めるようになると申しておる。生意気な子だ。わしは十一年かかった。


 書生を五人、取ることにした。五人のうち、四人は途中で投げるだろう。一人残れば上等だ。十年経てば、わしの読みを疑える者が、大陸に四人か五人おる勘定になる。……業腹だが、そう思うと、朝の目覚めが良い。


 一つ、報せておく。覚え書きの巻頭に、あの三行を写した。アーレンスの奥方の、あの三行だ。


 読み手なき側に、読み手を貸すべし。


 わしの父は、これを退けた。わしは、これを、書き出しに置いた。……四十年遅れたが、これで、綴じたままではなくなった。


 アルブレヒト・ケラー』


 レオノーラは、その一枚を二度読んだ。


 角を丸めず、払いを払いきる字を思い出した。誰の手か、彼女は知っている。だが、その名を、この手紙は書いていない。書く必要がないと思ったのか、書けなかったのか。


(母上。……四十年かかりましたが、あなたの三行は、いま、いちばん初めの頁におります)


 彼女は、その手紙を、卓の抽斗に仕舞った。奥ではなく、手前に。


 *


 同じ日の午後、装飾のない、痩せた紋の封が届いた。


『貴公に、また一つ見せてもらった。


 塩が動き、鉄が動き、こんどは言葉が動くのだと思うておった。……違ったな。動いたのは、人でも、言葉でもない。卓のほうだ。


 貴公は、正しさを決める椅子を、卓から取り外した。取り外しても、卓は倒れなかった。あれは、なかなか、見物であった。


 オズワルドが帰ってきて、しきりに唸っておる。「上座が無いのなら、譲るものもない」と、自分で言うたそうだな。あの男は、負けたとは思うておらぬ。礼を通したと思うておる。……それでよい。そのほうが、あの男は長く働く。


 次に何が動くか、私はもう、量らぬことにした。量っても、貴公が卓の真ん中におる。それだけは、いつも当たる。


 ファルク』


 レオノーラは、口の端をごく静かに緩めた。


(真ん中には、もう、おりません。……そのことは、まだ、お知らせしなくてよいでしょう)


 *


 ミレーユ・サンクは、リーゼンへは帰らなかった。


 読み合わせの卓には、常任の訳し手を一人置くと決めてある。どの国にも属さず、どの家にも雇われない。ミレーユは、その席を引き受けた。給金は六つの家が均等に出す。


「アーレンス様。……よろしいのでしょうか。わたくしのような者が」


「あなたのような者しか、おりません」


 レオノーラは、卓の名簿を彼女に見せた。


「一つだけ、決めてあることがございます。訳し手は、十年で替わります。同じ人が、二十年続けてはなりません」


「……なぜ、でございましょう」


「あなたが、二十年後に、あの方になるからです」


 ミレーユは、しばらく考えて、それから、静かに頷いた。三年ぶんの手が、名簿の端をきちんと揃えた。


 *


 夕方、ニコが読み合わせの規則の清書を持ってきた。


「レオノーラさん。ここ、一つ、抜けてないっすか」


「どこでしょう」


「仲介人の席っす。……レオノーラさんの席が、名簿に無いんすけど」


「置いていません」


 ニコが顔を上げた。


「十年ごとの読み合わせに、仲介人は要ります。ですが、同じ人でなくてよいのです。日付が呼び、六人が集まり、誰かが進行を務める。――誰でも構いません」


「でも、レオノーラさんがいなかったら」


「回ります」


 彼女は、規則の一枚を指でなぞった。


「ニコ。私が抜けたら、王国は、約束を一つも纏められなくなりました。あれは、私が偉かったからではありません。卓の作りが、悪かったのです」


 ニコは、しばらく黙っていた。それから、少し笑った。


「……レオノーラさんが、いなくても、回るんすね」


「ええ。それが、いちばん良い卓です」


 *


 その晩、レオノーラは暦を開いた。


 十年後の、同じ日。そこへ、細い印を一つ入れる。旧議場の扉が開く日である。誰も招集をかけない。呼ばれもしない。その日、六つの家の使いが、それぞれの足でここへ来る。


 十年後、自分がこの街にいるかどうかは分からなかった。生きているかどうかも分からない。いなくても、扉は開く。


(この卓には、私の名が、どこにも要りません。……ようやく、一つ、組めました)


 窓の外で、鍛冶の槌が鳴っている。街の呼吸のように、規則正しく。


 *


 階段を、駆け上がる音がした。


 ニコが、息を切らして戸口に立っていた。両手で、一通を捧げている。封蝋はリーゼンの深い緑で、押してあるのは私印ではなかった。王印だった。


「レオノーラさん。……これ、国書っす」


 レオノーラは、封を切った。文面は、短かった。


『リーゼン王国は、フリーセンにおける対等の卓に、席を乞う。


 我が国は、これまで、貴殿を国の一部として扱い、失い、そして外から学び直した。もはや、駒として招くことはせぬ。一国として、卓の向こう側に座ることを願う。


 仲介を、貴殿に依頼したい。相手は、我が国の隣国――ヴェルダン王国である。


 平和条約の、次の更新について。


 リーゼン王国王太子 ロデリック』


 最後に、一行だけ、字の細さが変わっていた。


『私事は、書かぬ』


 レオノーラは、その一行の上で、指を止めた。


 窓の外はもう暗い。運河の水音と、槌の音と、遠くで誰かが笑う声がする。はじめてこの街に着いた夜と、同じ音だった。


 あのとき、彼女は席を失って、この街へ来た。


 いま、席が、向こうから来た。


(……次の更新まで、まだ二十年あまりございますね)


 ずいぶん気の早い話である。だが、期限に追われて卓を組めばどうなるかを、あの方は誰よりも近くで見ていた。二十年早く始めるというのは、そういうことだった。


 彼女は、新しい紙を引き寄せた。上座の無い卓の、次の一つ目を、そこに書き始めた。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。第二部「対等の卓」、これにて一区切りです。


 三十七日の読み合わせを経て、正文は六つになりました。上座はありません。原本はどこにも置きません――一つしかない紙は燃えますが、六つある紙は燃えないからです。十年後の同じ日、誰も招集をかけないまま、旧議場の扉が開きます。


 ケラーは書生を五人取りました。十年経てば、自分の読みを疑える者が四人か五人できる勘定です。「業腹だが、朝の目覚めが良い」。覚え書きの巻頭には、四十年前に彼の父が退けた三行が写されています。角を丸めず、払いを払いきる字で書かれた、あの三行が。


 ミレーユは訳し手の席に残りました。ただし十年で交替します。同じ人が二十年続ければ、その人が「あの方」になってしまうからです。


 レオノーラは、自分の席を名簿に置きませんでした。彼女が抜けたら国が止まったのは、彼女が偉かったからではなく、卓の作りが悪かったから。第一部の最初の一行から続いてきた問いに、ここでようやく答えが出ました。


 ――その夜、王印の押された一通が届きます。駒としてではなく、一国として。相手は、ヴェルダン王国。議題は、平和条約の次の更新――期限は、まだ二十年あまり先です。かつて三十日の期限に追われたあの条約を、こんどは、追われる前から組みにいきます。


 第三部「対等の卓、その向こう側」へ続きます。ここまで長く並走してくださった皆さま、本当にありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一行目を書く手の、いちばんの支えです。どうか、もう一席だけ、お付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。