第60話 言葉の卓、その先へ
読み合わせが終わったのは、三十七日目の夕方だった。
旧議場の卓の上には、六通の写しと、六枚目の紙が残った。紙はもう白紙ではない。表も裏も、細かい字で埋まっている。頷きの取れた読みが、条ごとに、行ごとに、書き取ってあった。
最後の一行を読み終えたとき、誰からともなく、六人が同時に息を吐いた。ヨナが右手を左肩に当て、ハーロが算盤をようやく袋へ戻した。ベルガーは目を赤くしていた。三十七日のうち、彼はひと言も欠席しなかった。
「では、署名を」
レオノーラが言うと、ヴェルナーが笑って首を振った。
「先に、腹ごしらえだ。三十七日だぞ。老いぼれを殺す気か」
*
署名は、翌朝に行われた。
六通の写しを、円卓の上に、同じ高さで並べる。六人が、それぞれの写しの前に立つ。合図はない。旧議場の鐘が鳴り終わったところで、六本の筆が同時に下りた。
同文協定。正文は六つで、上座は無い。
読み合わせの記録は、六枚目として綴じ、同じものを六通、写し取った。どれを原本とするかは、決めない。どの国にも、どの都市にも、どの書庫にも預けない。六通が、六つの手元にあるだけである。
「原本が無いのは、落ち着かんな」ヴェルナーがぼやいた。
「無いほうが、失くしません」レオノーラは言った。「一つしかない紙は、燃えます。六つある紙は、燃えません」
*
署名の日の晩、イレーネが酒を抱えて上がってきた。
「はっ、三十七日ときたもんだ。あんたら、正気かい」
「正気でございます」
「まあいいさ。市場じゃ、あんたのおかげで大損した連中がいてね」イレーネは椅子に沈み込み、痛快そうに指を鳴らした。「蔵が止まってるうちに、鉄の証文を買い集めてた連中さ。ひと月かかると踏んで、三月ぶん買い込んだ。……終わっちまったからね、あれ。抱えた紙が、ただの紙になった」
「打ってはおりません」
「知ってるよ。あんた、名前を控えただけで、一度も動かなかったろう」イレーネは酒を注ぎ、それから、少しだけ声を落とした。「……あの訳し手の娘さ。市場で、荷役に混じって、下手くそな山の言葉で聞き取りをやってた。三日も。あたしゃね、ああいうのを見ると、昔のことは、まあ、いいかって気になるんだよ」
「イレーネ」
「言わないよ。言ったからには、もう言わないって、言っただろ」
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三日後、書庫から一通が届いた。ケラーの字は、思っていたより大きかった。
『甥に、覚え書きの写しを取らせている。
あの子は、七年で読めるようになると申しておる。生意気な子だ。わしは十一年かかった。
書生を五人、取ることにした。五人のうち、四人は途中で投げるだろう。一人残れば上等だ。十年経てば、わしの読みを疑える者が、大陸に四人か五人おる勘定になる。……業腹だが、そう思うと、朝の目覚めが良い。
一つ、報せておく。覚え書きの巻頭に、あの三行を写した。アーレンスの奥方の、あの三行だ。
読み手なき側に、読み手を貸すべし。
わしの父は、これを退けた。わしは、これを、書き出しに置いた。……四十年遅れたが、これで、綴じたままではなくなった。
アルブレヒト・ケラー』
レオノーラは、その一枚を二度読んだ。
角を丸めず、払いを払いきる字を思い出した。誰の手か、彼女は知っている。だが、その名を、この手紙は書いていない。書く必要がないと思ったのか、書けなかったのか。
(母上。……四十年かかりましたが、あなたの三行は、いま、いちばん初めの頁におります)
彼女は、その手紙を、卓の抽斗に仕舞った。奥ではなく、手前に。
*
同じ日の午後、装飾のない、痩せた紋の封が届いた。
『貴公に、また一つ見せてもらった。
塩が動き、鉄が動き、こんどは言葉が動くのだと思うておった。……違ったな。動いたのは、人でも、言葉でもない。卓のほうだ。
貴公は、正しさを決める椅子を、卓から取り外した。取り外しても、卓は倒れなかった。あれは、なかなか、見物であった。
オズワルドが帰ってきて、しきりに唸っておる。「上座が無いのなら、譲るものもない」と、自分で言うたそうだな。あの男は、負けたとは思うておらぬ。礼を通したと思うておる。……それでよい。そのほうが、あの男は長く働く。
次に何が動くか、私はもう、量らぬことにした。量っても、貴公が卓の真ん中におる。それだけは、いつも当たる。
ファルク』
レオノーラは、口の端をごく静かに緩めた。
(真ん中には、もう、おりません。……そのことは、まだ、お知らせしなくてよいでしょう)
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ミレーユ・サンクは、リーゼンへは帰らなかった。
読み合わせの卓には、常任の訳し手を一人置くと決めてある。どの国にも属さず、どの家にも雇われない。ミレーユは、その席を引き受けた。給金は六つの家が均等に出す。
「アーレンス様。……よろしいのでしょうか。わたくしのような者が」
「あなたのような者しか、おりません」
レオノーラは、卓の名簿を彼女に見せた。
「一つだけ、決めてあることがございます。訳し手は、十年で替わります。同じ人が、二十年続けてはなりません」
「……なぜ、でございましょう」
「あなたが、二十年後に、あの方になるからです」
ミレーユは、しばらく考えて、それから、静かに頷いた。三年ぶんの手が、名簿の端をきちんと揃えた。
*
夕方、ニコが読み合わせの規則の清書を持ってきた。
「レオノーラさん。ここ、一つ、抜けてないっすか」
「どこでしょう」
「仲介人の席っす。……レオノーラさんの席が、名簿に無いんすけど」
「置いていません」
ニコが顔を上げた。
「十年ごとの読み合わせに、仲介人は要ります。ですが、同じ人でなくてよいのです。日付が呼び、六人が集まり、誰かが進行を務める。――誰でも構いません」
「でも、レオノーラさんがいなかったら」
「回ります」
彼女は、規則の一枚を指でなぞった。
「ニコ。私が抜けたら、王国は、約束を一つも纏められなくなりました。あれは、私が偉かったからではありません。卓の作りが、悪かったのです」
ニコは、しばらく黙っていた。それから、少し笑った。
「……レオノーラさんが、いなくても、回るんすね」
「ええ。それが、いちばん良い卓です」
*
その晩、レオノーラは暦を開いた。
十年後の、同じ日。そこへ、細い印を一つ入れる。旧議場の扉が開く日である。誰も招集をかけない。呼ばれもしない。その日、六つの家の使いが、それぞれの足でここへ来る。
十年後、自分がこの街にいるかどうかは分からなかった。生きているかどうかも分からない。いなくても、扉は開く。
(この卓には、私の名が、どこにも要りません。……ようやく、一つ、組めました)
窓の外で、鍛冶の槌が鳴っている。街の呼吸のように、規則正しく。
*
階段を、駆け上がる音がした。
ニコが、息を切らして戸口に立っていた。両手で、一通を捧げている。封蝋はリーゼンの深い緑で、押してあるのは私印ではなかった。王印だった。
「レオノーラさん。……これ、国書っす」
レオノーラは、封を切った。文面は、短かった。
『リーゼン王国は、フリーセンにおける対等の卓に、席を乞う。
我が国は、これまで、貴殿を国の一部として扱い、失い、そして外から学び直した。もはや、駒として招くことはせぬ。一国として、卓の向こう側に座ることを願う。
仲介を、貴殿に依頼したい。相手は、我が国の隣国――ヴェルダン王国である。
平和条約の、次の更新について。
リーゼン王国王太子 ロデリック』
最後に、一行だけ、字の細さが変わっていた。
『私事は、書かぬ』
レオノーラは、その一行の上で、指を止めた。
窓の外はもう暗い。運河の水音と、槌の音と、遠くで誰かが笑う声がする。はじめてこの街に着いた夜と、同じ音だった。
あのとき、彼女は席を失って、この街へ来た。
いま、席が、向こうから来た。
(……次の更新まで、まだ二十年あまりございますね)
ずいぶん気の早い話である。だが、期限に追われて卓を組めばどうなるかを、あの方は誰よりも近くで見ていた。二十年早く始めるというのは、そういうことだった。
彼女は、新しい紙を引き寄せた。上座の無い卓の、次の一つ目を、そこに書き始めた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。第二部「対等の卓」、これにて一区切りです。
三十七日の読み合わせを経て、正文は六つになりました。上座はありません。原本はどこにも置きません――一つしかない紙は燃えますが、六つある紙は燃えないからです。十年後の同じ日、誰も招集をかけないまま、旧議場の扉が開きます。
ケラーは書生を五人取りました。十年経てば、自分の読みを疑える者が四人か五人できる勘定です。「業腹だが、朝の目覚めが良い」。覚え書きの巻頭には、四十年前に彼の父が退けた三行が写されています。角を丸めず、払いを払いきる字で書かれた、あの三行が。
ミレーユは訳し手の席に残りました。ただし十年で交替します。同じ人が二十年続ければ、その人が「あの方」になってしまうからです。
レオノーラは、自分の席を名簿に置きませんでした。彼女が抜けたら国が止まったのは、彼女が偉かったからではなく、卓の作りが悪かったから。第一部の最初の一行から続いてきた問いに、ここでようやく答えが出ました。
――その夜、王印の押された一通が届きます。駒としてではなく、一国として。相手は、ヴェルダン王国。議題は、平和条約の次の更新――期限は、まだ二十年あまり先です。かつて三十日の期限に追われたあの条約を、こんどは、追われる前から組みにいきます。
第三部「対等の卓、その向こう側」へ続きます。ここまで長く並走してくださった皆さま、本当にありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一行目を書く手の、いちばんの支えです。どうか、もう一席だけ、お付き合いください。




