第58話 同じ、高さに
卓の日は、よく晴れていた。
旧議場の円卓には、八脚が置かれた。座るのは、六人である。メーア、サヴァル、リーゼン、フリーセン、中立の帳簿方、そしてヴェルダン。レオノーラは前夜のうちに、椅子の間隔をもう一度測り直している。脚数が増えると、五脚のときの間隔では詰まる。詰まった卓は、声が近くなり、近い声は角が立つ。
窓を背にする席は、今日も空けてあった。
「一脚、余ってるっすけど」
「余らせます」
「……誰か、来るかもしれないから、じゃないんすね」
レオノーラは答えなかった。ニコは、それ以上聞かなかった。
*
オズワルド・カイの申し立ては、非の打ちどころがなかった。
彼は立ち上がり、まず五つの家それぞれへ順に一礼した。礼の順序は、条約を結んだ年の古い順だった。誰も、その順序に文句をつけられない。それから彼は、卓の中央へ一枚を置いた。
「ヴェルダンは、正文をヴェルダンの言葉と定めることを申し入れます。理由は先に申し上げたとおり。もっとも多く結び、もっとも長く守り、破れば最も高く払ってきた言葉だからでございます」
彼は、そこで言葉を切った。切り方も、うまかった。
「――ただし、申し添えます。ヴェルダンは、この件で、鉄の値を一切動かしません。正文がどの言葉になろうと、蔵へ売る値は据え置きます。宰相の名で、書面にしてもよろしい」
部屋の空気が、そこで一度、緩んだ。
(脅していない。……値を人質に取らないと、先に自分から縛った。この方は、去年とは、別の卓に立っておいでです)
ハーロが、算盤に手を置いたまま言った。
「正直に申せば、こちらは、もう疲れております。四日待って理由のない返書を受け取るのも、山と睨み合うのも。……読める言葉で決まるのなら、それでよい」
「山は、市の言葉でなければ、それでよい」ヨナが続けた。
「り、リーゼンは」ベルガーが言いかけて、隣を見た。ミレーユが小さく首を横に振った。ベルガーは咳払いをして、言い直した。「リーゼンは、アーレンス殿の案を、先に伺いたい」
五つの目が、レオノーラへ向いた。
レオノーラは、すぐには答えなかった。手元の控を閉じ、卓の上のものを一度すべて脇へ寄せる。紙を減らしてから話す。これも王宮の頃からの癖だった。相手の前に紙が多いと、人は自分の側の紙だけを読む。
*
「正文は、置きません」
彼女は立ち上がらなかった。座ったまま、卓の上に、五通の写しを一つずつ、同じ高さに揃えて置いた。
「どの言葉も、上座に据えません。五つの写しは、すべて正文といたします。――同文、と呼びます」
「五つとも正文」オズワルドの眉が動いた。「それは、正文が無いのと同じでございましょう。食い違ったとき、拠るところがない」
「拠るところは、作ります。ただし、写しの外にです」
レオノーラは、六枚目の白紙を、五通の真ん中へ置いた。
「署名の日に、条文を一行ずつ、声に出して読み合わせます。五つの家が、それぞれの言葉で、同じ一行を読む。読んだあとで、六人に伺います。『同じ意味ですか』と。六人が頷いた読みだけを、この紙へ書き取ります」
「六人……」
「五つの家と、ヴェルダンでございます」
部屋が静かになった。ニコの筆の音だけが鳴っていた。
「一行ごとに、頷きを取る。頷かなければ、その行は、通しません。頷けるまで書き直します。――時はかかります。おそらく、十日では終わりません」
「十日どころか、ひと月かかりますぞ」ハーロが呻いた。
「かかります。一度だけ」
レオノーラは、六枚目の紙を指した。
「一度かければ、あとは、この一枚が答えます。次に語が割れたとき、書庫へ問う必要はございません。この紙を開いて、あの日、六人が頷いた読みを見るだけです。……正しい読みを、あとから一人に決めてもらうのではありません。はじめに、全員で作っておきます」
ヨナが、ゆっくりと右手を左肩に当てた。
「……我らの言葉が、上座でなくてよいのですか」
「よいのです。誰の言葉も、上座になりません」
「では、我らの言葉は、どこに」
「同じ高さに」
レオノーラは、五通の端を、指で軽く押した。五通の縁が、卓の上でまっすぐ一本に揃った。
*
「では」
オズワルドが、静かに口を開いた。慇懃な声だったが、今日はじめて、そこに鋭さがあった。
「その読み合わせの席で、古語の裏づけは、誰が述べるのです。あなた方の中に、五百年前の崩し字を読める者は、一人もおられぬはずだ」
「同盟書庫の主席記録官に、席をお願いしております」
「ケラー殿を」
「はい。ただし、御役目は、これまでと変わります」レオノーラは言った。「ケラー様には、最初に読んでいただきます。古語ではこう読める、と。……それは、答えではなく、材料でございます。決めるのは、六人の頷きです」
オズワルドは、少しのあいだ黙った。それから、ゆっくりと首を振った。
「――お見事な組み立てでございます。ですが、一つ、抜けております」
「伺います」
「人の言葉は、生きて変わる。そこのサンク殿が、そう仰った。三年で港の語が変わったと」
ミレーユが、はっと顔を上げた。
「では、十年後はいかがです。二十年後は」オズワルドは、六枚目の白紙を指した。「その紙に書き取った読みも、いずれ、いまの言葉では読めなくなる。二十年後、この紙の一行が食い違ったとき――最後に、誰が決めるのです」
誰も答えなかった。
「決める者のない条約は、条約ではございません。上座を消せば、公平になると、あなたはお考えだ。だが、上座のない部屋は、誰も戸を閉められぬ部屋でございます」
オズワルドは席へ戻り、外套の裾を正した。礼にかなった、静かな詰め方だった。
部屋の六人が、それぞれ違う顔で黙っていた。ハーロは算盤の玉を一つだけ弾いて、そのまま指を止めている。ヨナは山の礼の形に手を置いたまま動かない。ベルガーは助けを求めるようにミレーユを見て、ミレーユは自分の膝を見ていた。ヴェルナーだけが、腕を組んで天井を見ていた。老商人は困ったときにいつも天井を見る。
(……この方は、今日、いちばん深いところを突いてこられました)
レオノーラは、六枚目の白紙を見ていた。答えは、まだ持っていない。
*
そのとき、旧議場の扉が開いた。
蝶番が重く鳴り、部屋の全員が振り向いた。入ってきたのは、痩せた老人だった。旅装のままで、外套の肩に街道の埃が乗っている。片手に、麻紐で括った古い束を抱えていた。
埃と、膠と、乾いた冬の匂いが、部屋に入ってきた。
老人は敷居のところで足を止め、六脚の椅子を順に見た。それから、いちばん端の――窓を背にした、空けてある席を見た。
「その席は」ケラーが、しわがれた声で言った。「わしの席かね」
「いいえ」
レオノーラは立ち上がった。
「その席は、どなたのものでもございません。ケラー様の席は、こちらでございます」
彼女が示したのは、円卓のうち、ほかの六脚とまったく同じ形の、まったく同じ高さの、もう一脚だった。
お読みくださり、ありがとうございます。
レオノーラの案は「正文を置かない」でした。五つの写しをすべて正文とし、署名の日に一行ずつ声に出して読み合わせ、六人が「同じ意味だ」と頷いた読みだけを、六枚目の紙に書き取る。――正しい読みを、あとから一人に決めてもらうのではなく、はじめに全員で作っておく。ひと月かかっても、一度だけ。
オズワルドは、値を人質に取らないと自分から先に縛りました。去年とは別の卓に立っています。彼が突いたのは、いちばん深いところでした。「言葉は生きて変わる。二十年後、その紙が食い違ったとき、最後に誰が決めるのです」。上座のない部屋は、誰も戸を閉められぬ部屋。
答えを持たないまま、扉が開きます。街道の埃を肩に乗せた老人が、古い束を抱えて。用意されていたのは、ほかとまったく同じ高さの、もう一脚でした。
次回「読み手は、卓」。あの一脚の意味に気づいて息を呑んでくださった方、ブックマークと評価を頂けると励みになります。




