第57話 突きつけない、紙
レオノーラは、船を降りた翌日にもう一度メーアへ戻った。
今度は一人だった。ニコには帳面の清書を残し、ミレーユは港の聞き取りへ出してある。誰も連れていかない理由を、ニコは聞かなかった。彼はこのごろ、聞かないほうがよいときの見分けがつくようになっていた。
書庫に着いたのは夕方だった。書生はもう帰り、いちばん奥の卓に、ケラーだけが座っている。窓の高いところから落ちる光が、老人の手元にだけ、細く残っていた。
「また来たか」
「はい。お目にかけたいものがございます」
レオノーラは四枚の紙を出した。卓の上に、順に並べる。数え終えた四枚である。
*
ケラーは、しばらく黙って見ていた。それから、一枚目を指で押さえた。
「三百二十一件。……よう数えたな。わし自身、数えたことがない」
「二枚目を、御覧いただけますか」
「八十七件」老人の声は、まだ平らだった。「片方に読み手がおらぬ争いだな。それがどうした」
「三枚目でございます」
ケラーは三枚目を見た。見て、動かなくなった。
「……八十七」
「はい」
「八十七分の、八十七」
「はい」
老人は顔を上げた。落ちくぼんだ目に、はじめて熱のようなものが差した。それは怒りだった。だが、彼女に向けられた怒りではなかった。
「――数え違いだろう。控は五十年ぶんある。娘が二日で数えたものが、正しいはずがない」
「その通りでございます。ですから、お確かめいただきたく」
レオノーラは、四枚目を差し出した。八十七件の年号と、当事者の名を、一件ずつ書き並べた紙である。
「印の打ち方も、書いてございます。誤っておりましたら、御指摘ください。私は、直しに参ります」
ケラーは、その紙をひったくるように取った。
*
老人は、その夜、数えた。
レオノーラは止めなかった。書庫の壁ぎわの椅子に座り、外套を膝に掛けて、老人が棚と卓のあいだを往復するのを見ていた。ケラーは梯子を上がり、束を下ろし、紐を解き、控を一枚ずつ明かりへ寄せた。控の日付を読み、名を読み、それから四枚目の紙へ戻って、レオノーラの印と突き合わせる。
その手つきに、迷いはなかった。束を下ろす前に必ず棚板の埃を払い、紐は結び目のほうから解き、解いた紐は同じ場所に置く。控を明かりへ寄せるときは紙の縁を持ち、面には指を触れない。八十七度そうしても、八十七度とも変わらなかった。三代続いた家の手つきである。
三度、彼は「違う」と言った。三度とも、しばらくして「いや、合うておる」と言い直した。
夜半を過ぎたころ、老人は棚のいちばん奥から最後の束を下ろし、それを卓に置いたまま、椅子に落ちるように座った。
「……八十七だ」
彼は、卓の上の四枚を見なかった。天井の高い窓のほうを見ていた。
「五十年で、八十七度。わしと、父と、祖父が、読める者の言い分だけを聞いて、読めぬ者に退がれと言うた。……一度も、間違えずに」
「はい」
「一度も、間違えずに、だ」老人は、乾いた声で笑った。「間違えておれば、まだ、救いがあった」
*
レオノーラは、そこではじめて口を開いた。
「ケラー様。あなたが誤ったのではありません」
老人は答えなかった。
「あなた一人しか読めなかったことが、誤りでございます」
窓の外で、運河の水が鈍く鳴った。
「――同じことだ」
「違います」
彼女の声は静かだったが、退がらなかった。
「同じでしたら、あなたを責めれば済みます。責めて、退けて、次の記録官を据えれば、この八十七は終わります。……終わりません。次の方も、一人しか読めません。八十七が、百七になるだけでございます」
「では、どうせよと言う」ケラーは、はじめて声を荒げかけた。「十年かけねば読めぬものだ。明日読める者を、どこから連れてくる。市の代書屋か。港の荷役か。あの者らに、五百年前の崩し字が読めるか」
「読めません」
「なら――」
「読まなくてよい形に、いたします」
老人は口を閉じた。
「読める人を増やすのではございません。あなたお一人にしか読めないままで結構です。ただ、あなたの読みを、あなただけの手から、卓の上へ移していただきたいのです」
「……意味が分からん」
「卓の日に、お見せいたします」
*
しばらく、二人とも黙っていた。ケラーは冷えた茶に手を伸ばし、飲まずに置いた。
「アーレンス殿。一つ、聞いてよいか」
「はい」
「なぜ、これを、卓へ持ち出さん」
老人は四枚の紙を、指の先で押した。
「その紙を五つの家へ回せば、書庫は今日で終いだ。あんたは、それができる。……なぜ、せん」
レオノーラは、少しのあいだ、答えを探した。探して、いちばん短いものを選んだ。
「私も、そこにおりましたので」
「そこ、とは」
「王宮でございます」
彼女は膝の上で手を重ねた。
「私は、王国の対外の一切を、一人で回しておりました。書式も、期限も、相手の禁句も、私の手帳の中だけにございました。四十二頁の引き継ぎ書を残しましたが、誰も読みませんでした。……私は、それを、うまく回っている証だと思っておりました」
ケラーが、ゆっくりと彼女を見た。
「私が抜けたとき、国は、一つも約束を纏められなくなりました。誰も私を疑わなかったのは、私が正しかったからではありません。疑える人が、一人もいなかったからでございます」
「……」
「私は、あのとき、切られました。切られなければ、たぶん、気づきませんでした」
レオノーラは、四枚の紙を自分のほうへ引き戻し、そっと畳んだ。
「ケラー様。あなたは、切られる前に、これを見ておいでです。私より、十年ぶんは早うございます」
*
帰り際、彼女は懐から一枚だけ出した。裏に三行のある、十七年前の控の写しだった。
「これは、お返しいたします」
ケラーは受け取り、裏を返した。角を丸めない、払いを払いきる字を、しばらく見ていた。
「先代様は、なぜ、この三行を、捨てずに綴じられたのでしょう」
「……さあな」
老人は、写しを胸の高さで持ったまま、少し首を傾げた。
「筋は通しても、捨てるのは、こわかったのかもしれん」
レオノーラは一礼して、書庫を出た。扉の重い音が、石の廊下に長く残った。
外はもう白みはじめていた。運河沿いの道を歩きながら、彼女は自分の足音の速さを確かめた。急いでいない。急ぐ必要のない用件だった。老人は明日答えを出さない。三代ぶんの手つきを持つ人は、三日では向きを変えない。向きを変えるとしたら、自分で数え直した紙のほうから変わる。
*
フリーセンへ戻ると、旧議場の使いが待っていた。
正文をどの言葉に置くか。五つの家とヴェルダンが、十日後に卓を囲む。招集はオズワルド・カイの名で出ていた。順序も、席次も、礼にかなった、隙のない一枚だった。
「レオノーラさん。……あの爺さん、来るんすかね」
「分かりません」
彼女は招集状を卓に置き、新しい紙を引き寄せた。書くことは、もう決まっている。
(来ても、来なくても、卓は組みます。……ですが、あの方が来なければ、この卓は、まっすぐには立ちません)
レオノーラは、八十七分の八十七を、五つの家へ回しませんでした。回せば書庫は今日で終わる。終わらせても、読める人が一人減るだけだからです。
代わりに、本人にだけ見せました。老人は、その夜、自分で数えました。三度「違う」と言い、三度とも「合うておる」と言い直した。記録の家の手は、数が合わないままでは眠れません。彼を追い詰めたのは、レオノーラではなく、彼自身の誠実さでした。
「あなたが誤ったのではありません。あなた一人しか読めなかったことが、誤りです」――この台詞を言える人は、大陸にひとりしかいません。四十二頁の引き継ぎ書を誰にも読まれず、それを「うまく回っている証」だと思っていた人です。
十日後、正文の卓が立ちます。ケラーは来るのか。次回「同じ、高さに」。




