第56話 書庫の、埃
書庫は、拍子抜けするほどあっさりと扉を開けた。
「見たいのなら、見なさい」
ケラーは、そう言っただけだった。訝しみもせず、条件もつけず、書生を呼んで地下の鍵を出させた。「裁定の控は、下だ。五十年ぶんある。埃をかぶっておるから、上着は脱いでおいたほうがよい」
レオノーラは深く一礼した。老人は、彼女が礼をしているあいだに、もう自分の頁へ首を落としていた。
(隠す気が、まったくない。……当たり前です。この方は、恥じるところが一つもないのですから)
*
地下は、思っていたより広かった。
控は年ごとに麻紐で括られ、木の棚に横積みにされている。いちばん古い束は縁が茶色く、指で触れると粉が落ちた。ニコが手燭を掲げ、ミレーユが最初の束の紐を解いた。埃が舞い、三人とも同時にくしゃみをした。
「うわ、これ、全部、読むんすか」
「読みません。数えます」
レオノーラは、床に紙を四枚並べた。
「一枚ごとに、四つだけ書き取ってください。いつ。誰と誰の争いか。書庫はどちらの読みを採ったか。――そして、四つ目」
彼女は四枚目の紙を指した。
「そのとき、争った双方に、古語を読める者がいたかどうか」
ミレーユが顔を上げた。「……それは、控に、書いてありますでしょうか」
「書いてあります。書庫は丁寧です。『照会者の代理人、某』と、必ず名が入っております。その名が、読み手を連れているかどうかは、名を辿れば分かります。連れていない照会者は、いつも、書庫へ『どうか、御裁定を』としか書けません」
三人は、そこから丸二日を使った。
やり方は初めの半刻で決めた。ニコが束を棚から下ろし、紐を解かずに年号だけ確かめて床へ並べる。ミレーユが一枚ずつ名を読み上げる。レオノーラは四枚の紙に印を打つだけで、控そのものは手に取らない。手に取ると読んでしまう。読んでしまうと、面白い一件で足が止まる。足が止まった数え上げは、必ず途中の年で偏る。
ニコが束を運び、ミレーユが名を読み、レオノーラが四枚の紙に印を打っていく。手燭の油を三度足した。ミレーユは途中から、名を見ただけで「この方は、読み手を持ちません」と言うようになった。商家の書簡を三年訳した耳は、書き手の身分を、文字の癖から聞き分けた。
二日目の夜に、数が出た。
*
「三百二十一件」
レオノーラは、四枚の紙を卓の上に並べた。
「五十年で、書庫が裁定した数です。そのうち、双方に読み手がいたものが、二百三十四件。この二百三十四件では、負けた側から、あとで異議が出ています。全部で十九件。書庫は、そのうち四件を、後の年に読み直しております」
「……ちゃんと、直してるんすね」
「ええ。この方たちは、誠実です」
彼女は二枚目の紙を指した。
「片方にだけ読み手がいなかったものが、八十七件」
ニコが、その数を書き写そうとして、筆を止めた。
「八十七件のうち、読み手のいなかった側が退いたものが」
部屋の空気が止まった。
「八十七件です」
誰も、何も言わなかった。手燭の芯が、小さく鳴った。
「全部……っすか」
「全部です。一件も、異議が出ていません。出せませんから」
(この方たちは、公平です。……公平に、読める者の言い分だけを、聞いてきた)
悪意なら、どこかに歪みが出る。歪みがあれば、そこを突ける。だが八十七分の八十七には、歪みがない。まっすぐで、澄んでいて、そして一方向を向いている。これは不正ではなかった。構造だった。
ミレーユが、震える指で束の一つを引き寄せた。
「アーレンス様。……この八十七の中に、山の名が、いくつもございます」
「ドレンですね」
「はい。十七年前。塩の目方の取り決めで、『常のごとく』という語の読みが割れております。書庫は、市の側の読みを採っております」
レオノーラは、その一枚を手に取った。
先だって、サビナ・コルトはこう書いて寄越した。山は、市に値を決められて五十年損をしてきた、と。読んだとき、レオノーラはそれを山の被害妄想だとは思わなかったが、根拠も持っていなかった。
根拠は、ここにあった。埃の下に、五十年ぶん。
*
その裁定の控には、裏があった。
裏面の隅に、細い字で三行、書き足されている。書庫の書式ではない。誰かが、あとから書き添えたものだった。
『読み手なき側に、読み手を貸すべし。
貸せぬのなら、その者の負けを、負けと呼ぶべからず。
――右、異議として控えを乞う』
署名はなかった。頭文字も、紋もない。ただ、字が美しかった。角を丸めず、払いを最後まで払いきる、古い書き方だった。
レオノーラは手燭を近づけ、墨の乗り方を見た。書き足しの墨は、控の本文より新しい。同じ日に添えられたものではない。裁定が下りたあとで、誰かがこの一枚を探し出し、探し当てて、裏に書いている。書いてから、また綴じ直している。
レオノーラは、その三行を、しばらく見ていた。
*
翌朝、彼女はその一枚を持って上へ上がった。ケラーは昨日と同じ姿勢で、同じ卓にいた。
「ケラー様。この裏の三行は、どなたの手でしょうか」
老人は控を受け取り、目を近づけ、少し離した。それから、意外そうな声を出した。
「これは、懐かしい」
「……ご存じですか」
「アーレンスの、奥方の手だ」
レオノーラは、動かなかった。指も、目も、声も、動かさなかった。ただ、卓の縁を握っていた手だけが、ほんの少し、力を変えた。
「リーゼンの、公爵家のな。あの方は、若いころ、こういう紙をよく寄越された。……わしの父が、そのたびに退けた。書庫は、裁定を下す場であって、貸し借りをする場ではない、と」
「先代様は、なんと、お返しになったのですか」
「返さぬ。控えに綴じて、それきりだ。異議は、受けた形にはする。だが、綴じたら、誰も読まん」ケラーは控を返しながら、穏やかに言った。「気の毒だが、筋は通っておる。書庫が読み手を貸せば、書庫が当事者になる。当事者になった書庫の裁定を、誰が信じる」
「……はい」
「よい字を書かれる方だった。それだけは、よう覚えておる」
*
帰りの船で、ニコが荷を抱えたまま言った。
「レオノーラさん。……これ、突きつければ、終わりっすよ」
「終わり、とは」
「八十七分の八十七っすよ。全部の国に見せたら、書庫の裁定なんて、誰も従わなくなる。あの爺さん、それで、おしまいっす」
レオノーラは、控の写しを膝の上に置いていた。裏の三行が、上を向いている。角を丸めない、払いを払いきる字。
「ニコ。あの方が悪いのなら、そうします」
「悪くない、って言うんすか。八十七件も」
「悪くありません。……悪くないから、困っているのです」
船は、運河をゆっくり下っていた。
(この紙は、あの方を終わらせるために使えます。……ですが、終わらせても、八十八件目は、いつか来ます。読める人が、一人減るだけ)
彼女は、その一枚を裏返し、字が見えないようにして荷の底へ入れた。
どう使うかは、まだ決めていない。ただ、卓の上に載せる紙ではない、ということだけは、決まっていた。
書庫は、あっさり扉を開けました。隠すところが一つもないからです。
地下から出てきた数字は、三百二十一件のうち八十七件が「片方だけ読み手を持たない争い」で、そのうち読み手のいなかった側が退いたのは――八十七件。全部です。悪意なら、どこかに歪みが出ます。歪みがあれば突ける。けれど八十七分の八十七には歪みがない。これは不正ではなく、構造でした。サビナが書いて寄越した「山は五十年損をしてきた」の根拠が、埃の下にありました。
控の裏に、三行。角を丸めず、払いを払いきる古い字で。「読み手なき側に、読み手を貸すべし」。書いたのは、アーレンスの奥方――ケラーの父の代に、そのつど退けられた人です。
ニコは「突きつければ終わり」と言います。終わらせても、読める人が一人減るだけ。次回「突きつけない、紙」。




