↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
55/60

第55話 話す言葉と、書く言葉

 ミレーユ・サンクは、四日後の昼に着いた。


 馬車を降りたのはベルガーが先で、彼女は少し遅れて、自分で荷を提げて降りた。荷は一つきりだった。着ているものは、王宮で見たどの衣装とも違っていた。糸の細い刺繍もなく、袖も邪魔にならない丈で、袖口だけが墨で汚れている。書き物をする者の袖だった。


 彼女は門の前で立ち止まり、二階の窓を見上げてから、深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく動かなかった。


「アーレンス様。……お目にかかれる立場ではないと、存じております」


「サンク様。荷を、お預かりします」


 レオノーラは、それだけ言った。詫びを受けなかったのではない。受け取ったうえで、置き場所を変えただけだった。


 *


 ニコが荷を運び、イレーネが階段の途中で腕を組んで待っていた。


「へえ。あんたが、あの、才女殿かい」


「……はい」


「あたしゃね、あんたが王宮で何を喋って、そのせいでこのお嬢さんが何を言われたか、ぜんぶ聞いてるよ」


 ミレーユは顔を上げなかった。言い返しもしなかった。ただ、荷の紐を握った指の関節が白くなっていた。


 イレーネは、それを上から下まで見て、鼻を鳴らした。


「……まあ、いいさ。あたしが言うぶんには、あんたも聞くしかないだろうしね。おい、お嬢さん。あたしは言ったよ。言ったからには、もう言わない」


「ありがとう、イレーネ」


 イレーネは肩をすくめて市場へ戻っていった。レオノーラはミレーユを二階へ通し、卓の椅子を引いた。詫びの続きが出る前に、五通の写しを卓へ広げた。


「サンク様。お仕事の話を、いたします」


 *


「幅のある語が、十七ございました」


 レオノーラは控えの一枚を回した。「量に乗せ替えられたのは、一つだけでした。残りの十六は、乗せ替えられません。『速やかに』『相当の』『常のごとく』――どれも、読む人によって伸び縮みします」


「……はい」


「サンク様。この十六について、書庫は『古語ではこう読む』と答えます。私は、それが誤りだとは思いません。ただ、確かめられません。――あなたに伺いたいのは、別のことです」


 レオノーラは、ヴェルダン語の写しの一行を指した。


「この語は、いま、どう使われていますか」


 ミレーユは、はじめて顔を上げた。指された行を見て、それから唇の中で二度、その語を発音した。声には出さない。舌の動きだけが動いていた。


「……いま、ですか」


「はい。書物ではなく、いま」


「この語は」ミレーユは、ゆっくり言った。「三年ほど前から、ヴェルダンの港で、意味が変わっております」


 部屋が静かになった。ニコが筆を止めた。


 言葉が変わるという話を、レオノーラは知識としては持っていた。王宮でも、古い条文の語を今の語へ置き換える作業を何度もした。だがそれは、十年、二十年の単位の話だった。三年で変わる、と言われたことはない。しかも変えたのは学者ではなく、港の荷役たちである。


「もとは『遅れずに』でした。ですが、いまは、港の荷役たちが、これを『次の船が出るまでに』の意味で使います。船が三日に一度しか出ませんから、実の意味は『三日以内』になります。……ヴェルダンの若い書記が、この写しを取ったのなら、その頭には、たぶん『三日以内』と入っております」


「では、この条は、ヴェルダンでは三日、山では『遅れずに』のまま」


「はい。……書庫の古語では、おそらく『日の内に』と出ると存じます。三つとも、違います」


 レオノーラは、しばらくその一行を見ていた。


(この方は、古語を読めない。……その代わりに、いまを読める。この卓に、いま、一人もいなかったものです)


 *


「ベルガー様」


 部屋の隅で気配を消していた新外務卿が、びくりと背を伸ばした。


「よく、お連れくださいました。どなたの思いつきでしょうか」


「わ、わたしです」ベルガーは早口になり、それから、言い直した。「……いえ。半分は、わたしです。もう半分は、去年、ヴェルダンに切り崩されかけて、恥をかいたからです。あのとき、こちらには、相手の言い分を、そのまま聞き取れる者が、一人もおりませんでした。訳した者が、みな、自分の願いを混ぜて訳した」


「よく、お気づきになりました」


「……サンク殿は、王宮を辞して、商家の書簡を訳しておられました。一日、十通。安い賃で。三年」ベルガーは声を落とした。「わたしは、そういう三年を積んだ人の耳を、買いに行っただけです」


 ミレーユは、その言葉のあいだ、じっと自分の手を見ていた。


 *


 夕方、レオノーラは彼女に十六か所すべてを渡した。


 渡し方も決めてあった。十六の語を、一語ずつ別の紙に写す。紙には語だけを書き、条文も、どの国の写しから採ったかも書かない。前後を見せれば、聞き取る側の耳に色がつく。色のついた耳は、聞きたい意味を聞いてしまう。


 紙を束ね、順序をわざとばらばらにして渡した。ミレーユは受け取って一枚ずつ検め、机の上で四つの山に分けた。港で聞ける語。市場で聞ける語。役所でしか使わない語。そして、どこで聞けばよいか分からない語。分け終えるのに、四半刻もかからなかった。


 仕分けの手つきを、レオノーラは黙って見ていた。三年ぶんの手だった。


「明日から、この十六について、いま、どう使われているかを、聞き取っていただけますか。港でも、市場でも、山でも。書物は、開かなくて結構です」


「……わたくしに、そのようなお役目を」


「あなたにしか、できません」


 ミレーユの肩が、はじめて震えた。彼女はそれを見せまいとして、深く頭を下げた。


「アーレンス様。わたくしは、あのとき、自分の語学が本物だと信じておりました。信じたまま、あなたの椅子に座りました。……いまは、分かっております。わたくしの語学は、浅うございます。書物は読めません。古い字も読めません」


「サンク様」


 レオノーラは、その先を待たずに言った。


「浅いのではありません。層が、違うのです。……あの卓で必要だったのは、あなたの層ではなかった。この卓で必要なのは、あなたの層です。それだけのことでございます」


 ミレーユは何か言おうとして、言えずに、もう一度頭を下げた。


 *


 その夜、レオノーラはニコに一通、書かせた。宛先は、メーアの同盟書庫。


「なんて書くんすか」


「過去の裁定を、拝見したいと」


「返書のこと、っすか」


「ええ。あの方は、五十年、覆っていないと仰いました。覆っていないということは、書いた紙が、全部、残っているということです」


 レオノーラは、窓の外の暗い運河を見た。ミレーユの一言が、まだ耳に残っている。書物ではなく、人の使うところしか知らない――その言い方の裏側に、ずっと引っかかっているものがあった。


(書庫は、いつも、書物のほうを見てきました。……では、そのとき、人のほうにいた側は、どうなったのでしょう)


 五十年ぶんの裁定。誰も文句を言わなかった裁定。


 文句を言わなかったのか、言えなかったのかは、紙を見れば分かる。

 詫びを受け取って、置き場所を変える。イレーネは言うだけ言って、言ったからにはもう言わない。この作品の赦し方は、たぶんこの形です。


 ミレーユ・サンクが戻ってきました。王宮を辞して三年、商家の書簡を一日十通、安い賃で訳してきた人です。彼女は、この卓に一人もいなかったものを持っていました。「いま、どう使われているか」。三年前から港で意味が変わった語を、彼女は舌の動きだけで思い出せます。書庫は十年かけて古語を読み、彼女は今日の言葉を聞き分ける。層が違うだけです。


 連れてきたのはベルガーでした。去年、切り崩されかけて恥をかいた人が、「そういう三年を積んだ人の耳を買いに行った」と言います。


 次回、五十年ぶんの裁定を洗います。「文句を言わなかったのか、言えなかったのか」。ミレーユの三年が報われてほしいと思ってくださった方、ブックマークを頂けると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。