第54話 礼の、ある上座
「正文を、ヴェルダンの言葉に」
オズワルド・カイは、そう言ってから、はじめて外套を脱いだ。脱いだ外套を自分で畳み、椅子の背に掛ける。所作の一つ一つに順序があり、その順序を踏み終えるまで、彼は次の言葉を継がなかった。
レオノーラは待った。この男は、急かされると言い分を短くする。短くされると、こちらが読み違える。
「理由を、伺えますか」
「礼でございます」
オズワルドは、卓の上に指を三本立てた。
「一つ。ヴェルダンは、大陸でもっとも多くの条約を結んでまいりました。二つ。もっとも長く、それを守ってまいりました。三つ。破ったとき、もっとも高い代償を払ってまいりました。……言葉に格があるとすれば、それは、その言葉で交わした約束を、どれだけ守ってきたかで決まりましょう」
「格の高い言葉を、正文に」
「上座は、譲り合うものではございません。ふさわしい者が座り、ほかの者がそれを認める。それが礼というものでございます」
(――土俵が、違います)
レオノーラは、内心で一歩退がった。この論法には、嘘がない。誇張もない。かつて条約更新の卓でこの男を骨抜きにできたのは、彼の儀礼を踏んでやったからだった。踏まれた儀礼は、機嫌をよくする。だが今日、彼が卓へ載せたのは機嫌ではなかった。礼そのものだった。
礼を否定する言葉を、彼女は持っていない。
「宰相様の、御意向でしょうか」
「いいえ」オズワルドは、はっきりと言った。「これは、私の申し入れでございます。宰相には、事後に申し上げる」
「……宰相様は、お止めになりませんでしたか」
「『好きにせよ』と。あの方は、近ごろ、量るのがお好きです。人の手並みを」
オズワルドは、灰緑の茶を運ばれる前に立ち上がった。
「一つだけ、申し添えます。私は、これを、あなたに黙って進めてはおりません。……ほかの家にも、同じ話を、同じ順序で申し上げました。そのほうが、礼にかないますので」
彼は一礼して、去っていった。丁重で、正確な、隙のない礼だった。
*
三日のうちに、卓は割れた。
レオノーラのやり方は決まっていた。届いた書簡は、その日のうちに三度読む。一度目は言い分を、二度目は言い分の順序を、三度目は書かれていないことを読む。書かれていないことのほうが、たいてい多くを語る。
読み終えたら要点を一枚に写し、書簡そのものは抽斗へしまう。原文を卓に出したままにしておくと、相手の言葉の調子に引きずられるからだった。
今度の三通は、三度目でようやく形が見えた。
メーアのハーロは、はじめ渋い顔をしていた。だが、オズワルドの言い分の一つが効いていた。――いつまで、読めぬ古語の裁定に縛られますか。
「アーレンス殿。私は書庫を敬っております。ですが、正直に申せば、あの返書が来るたび、こちらは四日待って、理由のない答えを受け取るだけだ。……読める字で決まるのなら、そのほうが、まだ商いになる」
サヴァルは、逆の理屈で同じ結論へ寄った。ヨナの持ち帰った文には、サビナの言葉がそのまま写されていた。
『読めぬ字より、読める字がよい。ただし、読める字が、市の言葉であってはならぬ。山は、市に値を決められて、五十年損をしてきた』
そして三日目に、ベルガーの書簡が着いた。震えた字で、長い前置きがあり、最後の三行に本音があった。
『リーゼンの言葉も、正文の一つに加えていただけないでしょうか。加えていただけねば、王国は、この協定において、読み手を持たぬ国となります。陛下より、そのように、強く』
(……そうなります)
レオノーラは三通を横に並べた。書き手も、立場も、望みも違う。だが三通とも、同じ一点を求めていた。自分の国の言葉を、上座に。
去年の峠では、名の順序が争われた。ドレンが先か、ラゴサが先か。あのときは、どちらの名も置かない峠の名を持ってくれば済んだ。
(今度は、順序ではありません。……意味そのものの、上座です。峠に当たるものが、どこにもない)
*
その晩、ヴェルナーが珍しく自分から二階へ上がってきた。手に酒瓶はなく、代わりに算盤を持っていた。
「お嬢さん。言っておく。……うちには、言うな」
「何を、でしょう」
「フリーセンの言葉を正文にしろ、と。誰も言い出さないうちに、俺のほうから断っておく」
老商人は算盤を卓に置き、それきり玉に触れなかった。
「うちの言葉が正文になれば、この街の代書屋が、大陸中の条約を握る。俺の商会が、その筆頭だ。……十年、いや二十年は食える。孫の代まで食える」
「ええ。食えます」
「食えるから、言わん」ヴェルナーは苦い顔をした。「去年、蔵の錠前を握らずに、席をもらった。あれで、俺は少し賢くなった。握ったら、次の卓が来ない。……お前さんに教わったんじゃないぞ。損して覚えた」
階段の下から、イレーネの声が飛んできた。
「聞いてたよ、爺さん! あんた、それ、いくらの話か分かってんのかい!」
「分かってるから、断ってんだ。うるさい」
(この方は、去年より、確かに広いところに立っておいでです)
*
深夜、レオノーラは旧議場に一人で残り、円卓の椅子を数えた。
五脚。どれも同じ形で、同じ高さで、同じ距離に置いてある。去年、鉄の卓を組んだとき、彼女はこの部屋から上座を消した。上座を消せば、面子の争いは、実利の話に戻る。そう信じてきたし、実際に二度、それで畳んだ。
だが、今度の上座は、椅子の上にない。
どの椅子に座っても、五人はそれぞれ違う言葉で同じ条文を読む。読みが割れれば、誰かが決める。決める者が上座である。椅子を平らにしても、意味の上座は残る。
(言葉の上に、椅子を並べ直すには……どうすればよいのでしょう)
答えは出なかった。
彼女は椅子を一脚だけ引き出し、卓の縁に手を置いて、その高さを確かめた。人の胸の下あたりに来る。ここへ肘をつけば、誰でも同じ姿勢で紙を読む。姿勢が同じなら、声の大きさもそろう。そういうことまで測って作らせた卓だった。測れるものは、すべて測ってきた。
測れないものが、いま、この上に載っている。
彼女は蝋燭を吹き消し、暗い円卓に手を置いて、しばらく立っていた。
*
翌朝、リーゼンから二通目が来た。今度は短かった。
『訳し手を、一人、連れてまいります。王国の言葉と、大陸の言葉の両方を、生きた形で扱える者です。書庫の古語は読めません。ですが、市場で使われている言葉なら、誰よりも聞き分けます。
――ミレーユ・サンク殿を、お連れしてよろしいでしょうか』
レオノーラは、その名の上で、指を止めた。
ニコが後ろから覗き込み、少し慌てた声を出した。
「これって……あの人、っすよね」
「ええ」
「……いいんすか」
レオノーラは、返事を書く紙を引き寄せた。返事は、一行で足りた。
(あの方は、書物を読めません。……人の口しか、読めません。それは、この卓に、いま、一人もいないものです)
オズワルドが持ってきたのは、嘘でも誇張でもありませんでした。「もっとも多く条約を結び、もっとも長く守り、破れば最も高く払ってきた言葉に、格がある」。第一部でこの男を骨抜きにできたのは、彼の儀礼を踏んでやったから。けれど今日、卓に載ったのは機嫌ではなく、礼そのものです。
三日で卓は割れました。メーアは「読めぬ古語より読める字を」、サヴァルは「ただし市の言葉は嫌だ」、リーゼンは「読み手を持たぬ国になりたくない」。三通とも、望みは同じ――自分の言葉を、上座に。
去年の峠は、名の順序でした。持ってくる第三の名がありました。今度は、意味そのものの上座です。椅子を平らにしても、消えません。
王国が連れてくる訳し手の名は――ミレーユ・サンク。次回「話す言葉と、書く言葉」。オズワルドの正論に唸ってしまった方、ブックマークで先をご一緒ください。




