第53話 訳の、いらない一行
卓は、フリーセン旧議場に置いた。
円卓で、上座がない。去年、鉄の卓を組んだのと同じ部屋である。レオノーラは前日の夕方から書記のニコと二人で入り、椅子の数を数え、間隔を測り、窓を背にする席をわざと空けた。誰かがそこに座れば、逆光で顔が見えにくくなる。見えにくい顔は、疑いを呼ぶ。
「レオノーラさん。この席、余らせとくんすか」
「余らせます。誰も座らないほうが、五人とも、よく見えますから」
卓の中央には、五通の写しと、五冊の帳面を積んだ。それだけである。彼女はいつも、卓の上に置くものを減らす。置いたものが多いほど、人は自分の側の紙だけを見るからだった。
*
当日、五つの家が揃った。
メーアはハーロ・ヴェント。サヴァルはラゴサのヨナが名代で、山の礼をして座った。リーゼンからは新外務卿エルンスト・ベルガー。フリーセンはヴェルナー・ロート。そして中立の帳簿方が、末席に一人。
初めの半刻は、予想どおりに過ぎた。
「返書は、書庫のものです。書庫の裁定に従わぬのなら、そもそも協定が成り立たぬ」ハーロは算盤を伏せたまま言った。
「読めぬ字で下された裁定に、なぜ従えましょう」ヨナの声は静かだったが、退がらなかった。「山は、掘るだけの国です。掘った分を積めと言われれば、掘る手を止めるほかありません」
「ま、待ってください」ベルガーが早口で割って入った。「わたしは……その、リーゼンは、産しませんし、使います。どちらの読みでも、こちらは……」
「使う側で積めと言われれば、王国は困る、と。そう仰りたいのでしょうな」
ハーロが言い、ベルガーが赤くなって黙った。ヴェルナーは腕を組み、面白くもなさそうに天井を見ていた。
(三人とも、正しい。……三人とも、自分の国の形で読んでいるだけ)
レオノーラは、それまで一度も口を挟まなかった。半刻ぶんの言い分がひととおり出尽くし、部屋の空気が薄く濁ったところで、はじめて紙を一枚、卓の中央へ滑らせた。
*
「どちらの読みが正しいかを、今日は、決めません」
五人が顔を上げた。
「決めなくても、晦日は越えられます。――では、こう書きましょう」
レオノーラは、その一枚に、自分の手で一行を書いた。書き終えてから、五人に向けて紙を回した。回すときも、誰か一人の前で止めない。指で押して、卓の上をゆっくり一周させた。
『各家、年ごとに、蔵より引きし分を、床へ戻す』
誰も、すぐには何も言わなかった。
「産する分では、ありません」レオノーラは静かに続けた。「用いる分でも、ありません。――引いた分です。蔵から出した鉄の量を、そのまま積み戻していただきます」
ヨナが顔を上げた。「山は、去年、蔵から一度も引いておりません」
「では、山は、積みません」
「……積まぬ、と」
「引いていないのですから、床は、山のぶん、減っておりません。減っていないものを、戻す道理がございません」
ハーロが、伏せていた算盤にはじめて手を置いた。指が二度、玉を弾いた。
「メーアは、引きました。ずいぶん引いた。冬に炉を止めずに済んだのは、蔵のおかげです」
「では、メーアは、多く戻していただきます。多く助かられたのですから」
ハーロは玉から手を離し、しばらく、その一行を見ていた。それから、ごく短く息を吐いた。
「……こちらの負けだ。これでは、文句の付けようがない」
「負けては、おられません。冬を越された分だけ、戻すだけでございます」
*
ベルガーが、おそるおそる手を挙げた。
「あの、アーレンス殿。……その、引いた量というのは、誰が数えるのですか。それがまた割れるのでは」
「もう、数えてあります」
レオノーラは、卓の中央の五冊を指した。「五つの帳面に、月ごとに書いてございます。五つの手が、同じ荷を、それぞれの目で書き取ったものです。――帳簿方様。メーアの引き高を、読み上げていただけますか」
末席の帳簿方が、あわてて立ち上がった。緊張した声で、数字を読む。
「メーア、四千三百二十車」
部屋の五人が、それぞれの帳面を繰った。同じ数字が、五冊に並んでいた。
誰も、その数字を訳さなかった。訳す必要がないからだった。数は、山の言葉でも、市の言葉でも、王国の言葉でも、四千三百二十である。
(言葉が割れるなら、割れないものに乗せ替える。……数と、日と、量。この三つだけは、誰の国語でもありません)
ヨナが立ち上がり、右手を左肩に当てた。今日はじめて、深く。
「サビナ様には、私から申し上げます。……山は、この一行になら、手を置きます」
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修正の一行は、その日のうちに五通すべてへ写された。
写し取りはレオノーラが自分で見届けた。五人の書記を同じ卓に並べ、同じ墨を使わせ、一行を五度、同時に書かせる。書き終えたら隣同士で読み合わせをさせ、字の欠けを互いに指させる。そのあいだ彼女は席を立たなかった。写しは写した瞬間から少しずつ違いはじめる。違いは、書いたその場でしか潰せない。
写しの末に五つの手が並び、帳簿方が最後に日付を入れた。蔵の扉は翌朝に開き、晦日を待たずに引き渡しが戻った。三日目には、鍛冶通りの炉が二つとも息を吹き返していた。
ヴェルナーが帳場から上がってきて、窓の外の煙を見て笑った。
「で、いくらの話だ?」
「一行ぶんです」
「安いな。……いや、安すぎる」老商人は椅子を軋ませた。「お前さん、今回は、ずいぶん早く畳んだじゃないか」
「畳んでは、おりません」
レオノーラは、船の中で数えた控えを卓に置いた。「幅のある語は、この協定に、十七ございました。今日、直せたのは、そのうちの一つです。ほかの十六は、量にも、数にも、日にも、乗せ替えられません」
「じゃあ、次に割れたら、また書庫か」
「――ええ。次に割れたら、また、書庫です」
ヴェルナーは、それきり黙って帳場へ降りていった。
*
その夕方、ロート商会の門に、ヴェルダンの馬車が着いた。
降りてきたのは、慇懃な、隙のない男だった。オズワルド・カイは、灰緑の茶を運んできた小僧を丁重に断り、外套も脱がずに二階へ上がってきた。
「アーレンス殿。此度の一行、見事な始末でございました。宰相も、感心しておられた」
「恐れ入ります」
「――ですが、あれは、繕いでございましょう」
オズワルドは、卓の上の十六か所の控えに、ちらりと目をやった。
「穴の空いた着物に、当て布を一枚。次に破れるのは、当てていないところです。……そこで、ヴェルダンより、正式に申し入れをいたしたい」
彼は懐から一通を出し、卓の上に、まっすぐ置いた。
「鉄蔵協定の正文を、ヴェルダンの言葉と、定めていただきたい」
数というのは、どの国の言葉でもありません。山でも、市でも、王国でも、四千三百二十は四千三百二十です。今回レオノーラがやったのは、それだけのことでした。
「どちらの読みが正しいか」を争わず、争えない場所へ乗せ替えた。『蔵より引きし分を、床へ戻す』――産した分でも、用いた分でもなく、引いた分。引いた量は、五つの帳面にもう書いてあります。誰も損をせず、誰も面子を潰されず、晦日は越えました。
けれど、レオノーラ自身は「畳んでいない」と言います。幅のある語は、あと十六か所。次に割れたら、また書庫へ問うしかない。当て布は一枚では足りません。
――その隙を、見逃さない男がひとり。第一部で灰緑の茶を骨抜きにされた大使が、今度は自分のいちばん強い土俵で戻ってきます。次回「礼の、ある上座」。一行で卓が動く瞬間がお好きな方、評価をひとつ頂けると励みになります。




