第52話 正しさを、決める人
返書は四日後の朝に着いた。
同盟書庫の封蝋は朱で、紋は一本の羽根と一冊の綴じ本だった。ニコが両手で捧げるようにして卓へ置く。封を切る前に、レオノーラは紋の縁を指でなぞった。蝋は厚く、押し方に迷いがない。何百通と押してきた手の押し方だった。
中の紙は一枚きりで、余白が広く、字は小さかった。
『鉄蔵協定・掛け金条項「己の分」の件。
当該語は、フリーセン市中の言い回しにあらず。メーア古語「土より出だす分」に由来す。よって「産する分」と読むを正しとす。
同盟書庫 主席記録官 アルブレヒト・ケラー』
それだけだった。理由も、参照した写しの所在も、書かれていない。書く必要がないのだった。
*
返書はその日のうちに五つの家へ回され、その日のうちに一つの家から突き返された。
「読めぬのです」
ラゴサの使者ヨナは、卓の前に立ったまま言った。右手を左肩に当てる山の礼をして、それから麦湯の椀を膝に置き、しばらく黙っていた。この実直な男が言い淀むのを、レオノーラは初めて見た。
「アーレンス殿。私どもは、去年の卓を疑っておりません。峠でも、蔵でも、あなたの段取りに従って、山は損をしませんでした。……ですが、これは、従えぬ」
「なぜでしょう」
「書いてあるのが、答えだけだからです」ヨナは返書を卓へ戻した。「『古語ではこう読む』。それだけです。私どもの誰も、その古語を読めません。読めぬ者に、どうして『読めた』と言えましょう。……サビナ様は、こう仰せです。『山は、字の読めぬ者ではない。ただ、その字だけが読めぬ』と」
(そこです。……読めぬのではなく、その一つだけが読めない)
レオノーラは静かに頷いた。「返書を、預からせてください。私が、書庫へ参ります」
「あなたが、行かれる」
「読めるかどうかを、確かめに」
ヨナは山の礼をもう一度して、退がった。灰緑の茶には、今日も手をつけなかった。
*
フリーセンからメーアまで、川船で三日かかった。
道中、レオノーラは五通の写しをもう一度読み返した。掛け金の条項だけでなく、前後の条もすべてである。異同のある語は「己の分」だけではない。「速やかに」「相当の」「常のごとく」――幅のある語は、ほかにも十六か所あった。今回はたまたま、量に関わる一語が先に爆ぜたにすぎない。
(十六。……いま静かにしているだけで、どれも、いつでも割れます)
メーアの同盟書庫は、運河の突き当たりの、日の入らない側に建っていた。
石造りの、飾りのない箱のような建物である。窓が高い位置にしかないのは、紙を灼かないためだと聞いた。扉を入ると、まず匂いが来た。紙と、膠と、埃と、それから乾いた冬の匂い。棚は天井まであり、梯子が壁づたいに滑る溝の上に掛かっていた。
案内の若い書生は、指で唇を押さえて「お静かに」とだけ言った。
主席記録官アルブレヒト・ケラーは、いちばん奥の卓にいた。痩せた老人だった。背は曲がっていないが、首だけが紙のほうへ落ちている。長年、そうして読んできた首の落ち方だった。彼は顔を上げず、手元の頁を最後まで読み終えてから、ようやく筆を置いた。
「フリーセンのアーレンス殿か。……鉄蔵の返書のことなら、書いたとおりだが」
「ケラー様。まず、御礼を申し上げます。四日で、正しい読みを頂きました」
「四日もかかった。老いたな」
ケラーは冗談を言ったつもりらしかったが、顔は動かなかった。彼は椅子を勧め、書生に茶を言いつけ、それから自分の手元の紙を伏せた。客の前で書きかけを開けたままにしない。三代続いた家の作法なのだろう。
「して、何を確かめに来られた」
「『土より出だす分』という古語の一節を、拝見したく存じます」
ケラーははじめて顔を上げた。落ちくぼんだ目に、驚きも警戒もなかった。ただ、丁重な困惑だけがあった。
「見て、どうなさる」
「読みたく存じます」
「読めるのかね」
「――いいえ」
レオノーラは正直に答えた。ケラーは頷いた。責める色はなかった。むしろ、優しかった。
「なら、見ても仕方があるまい。あれは字の形が今と違う。同じ字が三通りに崩れ、三つの違う字が一つに見える。読み方を教わらねば読めぬ。教わるには、十年かかる」
ケラーは立ち上がり、背後の棚から一巻を抜いた。抜き方に迷いがない。彼は巻を卓に置き、乾いた指で紐を解き、皺を伸ばすように三度、手のひらで撫でてから開いた。それから薄い紙を上に載せ、鉛で字の形をなぞって写しを取った。写しは手際よく、字の傾きまで揃っている。
「これが、その一節だ。……ほれ、見なされ」
レオノーラは覗き込んだ。字は、たしかに字に見えなかった。虫の這った跡のようでもあり、幾何の図のようでもある。同じ形が三度出てきて、三度とも少しずつ違っていた。
「三度出ておりますが、同じ字でしょうか」
「同じだ。書いた者の息継ぎで、崩れが変わる。……そこを見分けるのに、十年かかる」
「その十年を、いま、何人が終えておいでですか」
ケラーは少しのあいだ、天井の高い窓のほうを見ていた。
「大陸に、三人」
「三人」
「わしと、わしの甥と。あとの一人はヴェルダンにおるが、もう手が震えて、写しが取れぬ」
*
書生が茶を運んできた。ケラーは椀を両手で包み、湯気の向こうから穏やかに言った。
「アーレンス殿。案じておられるのは分かる。だが、書庫の裁定は、五十年、一度も覆っておらん。わしの父の代も、祖父の代もだ。誰も、文句を言うてこなんだ」
「――はい」
「誰も、文句を言うてこなんだ」
老人はもう一度、同じ言葉を、満足そうに繰り返した。
レオノーラは椀を膝に置いたまま、それを聞いていた。窓の高いところで、埃が一筋の光の中をゆっくり回っている。
(誰も文句を言わなかった。……この方は、それを、正しさの証だと思っておいでです)
彼女は、王宮の抽斗の底を思い出していた。四十二頁の引き継ぎ書。誰も読まなかった。誰も文句を言わなかった。あのとき自分は、それを「回っている証」だと思っていた。
*
帰りの船で、ニコが手すりに寄りかかって言った。
「あの爺さん、悪い人じゃないっすよね。……なんか、こう、すごく、ちゃんとしてた」
「ええ。とても、誠実な方です」
「じゃあ、なんで、レオノーラさん、そんな顔してるんすか」
レオノーラは、水面を見ていた。返書は、懐に入れたままだ。あの一枚には、正しい読みが一つだけ書いてある。四日で届き、五十年覆らず、誰も文句を言ってこなかった読みだった。
「ニコ。あの方が誤っているとは、私は思いません」
「なら」
「誤っていないことと、誰にも確かめられないことは、別です」
ヨナは山へ帰り、返書を持ち帰る。サビナは受け取らないだろう。晦日まで、あと十日だった。
(この卓の相手は、人ではありません。……五十年、誰も疑わずに済んできた、その静けさです)
返書は四日で届きました。理由は書かれていません。書く必要がないからです――五十年、一度も覆っていないのですから。
同盟書庫の主席記録官アルブレヒト・ケラー。悪人ではありません。むしろ、たいへん誠実な老人です。けれど、その古語を読める者は、大陸に三人。うち二人が、彼の家の者。「誰も文句を言うてこなんだ」を、彼は正しさの証だと信じています。かつて四十二頁の引き継ぎ書を誰にも読まれず、それを「回っている証」だと思っていた誰かと、同じように。
誤っていないことと、誰にも確かめられないことは、別。晦日まで、あと十日。次回、レオノーラが目先の割れを一行で止めます。
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