第49話 引き分けという、勝ち
円卓に、鉄を巡る国々が、着いた。
メーアのハーロ・ヴェント。サヴァルの使者。リーゼンのエルンスト・ベルガー、その後ろに、王太子ロデリック。そして、円卓の一席に、ヴェルダンの宰相ファルクが、大使オズワルドを伴って、静かに座っていた。上座は、ない。誰の席も、同じ高さだった。東の短辺に、中立仲介の、レオノーラ・アーレンス。
「では、始めます」
彼女の、静かな一言で、卓の空気が、締まった。
条文は、すでに、大筋が組んである。五つの鍵の蔵。飢えた国から回す床。首席の供給者としての、ヴェルダン。あとは、ファルクが、最後に載せると言った、一手だけだった。
「アーレンス殿」
ファルクが、痩せた指で、卓の縁を、一度撫でた。「約束どおり、一つ、載せよう。――貴公の床は、今日は、平らだ。実に、見事に、平らだ。だが、私は、明日の話をしている」
*
「人は、安心すると、怠ける」
ファルクの声は、低く、澱みがなかった。「今日、各国は、必死で、己の鉄を掘り、床に積んだ。飢えていたからだ。だが、蔵ができ、飢えが消えれば――どうなる。人は、痩せた自国の鉄山を、掘らなくなる。ヴェルダンから買えば、良い鉄が、安く手に入るのだからな。三年もすれば、床の鉄は、誰も継ぎ足さぬまま、埃をかぶる」
卓の国々が、わずかに、ざわめいた。ファルクは、それを見て、続けた。
「床が、埃になったとき。私の鉄が、また、唯一になる。頸木は、私が締めずとも、貴公らが、自分の手で、ゆるゆると、嵌め直すだろう。――貴公は、今日、勝つ。だが、時は、私の側だ。三年後、この卓は、私に、頭を下げに来る。……これが、私の、最後の一手だ。崩せるかね」
室が、静まった。ハーロが、ベルガーが、不安げに、レオノーラを見た。ファルクの言葉には、明日の重さがあった。今日の理屈では、崩せない、明日の重さが。
レオノーラは、しばらく、黙っていた。決め台詞の前の、間だった。
「――崩しません」
ファルクの、細い眉が、動いた。
「崩しません。あなたの、おっしゃるとおりです。安心した人は、怠ける。床は、放っておけば、埃になる。それは、正しい。……ですから、放っておかない仕組みに、いたします」
*
レオノーラは、卓の中央に、一枚の紙を、置いた。
「蔵の鍵を持つ資格を、こう定めます。――『各国は、毎年、定めた量の、自国の鉄を、床に積み続ける。積むのをやめた国は、鍵を失い、蔵から、締め出される』」
卓の国々が、顔を上げた。
「床は、恵みでは、ありません。皆で、掛け金を、積み続ける、備えです。掛け金を払わぬ者は、いざというとき、蔵を、使えない。――自国の鉄山を掘るのをやめれば、鍵を失い、飢えたとき、床に頼れない。ならば、どの国も、掘り続けます。怠けた国から、順に、頸木に、戻るのですから」
ファルクの指が、卓の縁で、止まった。
「怠けることが……損に、なる仕掛けか」
「はい。安心を、ただでは、配りません。安心は、掘り続ける者にだけ、配る。――そうすれば、床は、三年後も、平らなままです。埃を、かぶりません。あなたの明日の一手は、これで、今日のうちに、崩れました」
「……ふむ」
ファルクは、その紙を、長いこと、見ていた。痩せた指が、もう一度、卓の縁を、ゆっくりと撫でた。それから、彼は、口の端を、はっきりと、緩めた。今度は、隠さなかった。
「見事だ。……私は、貴公の床の、いちばん深い穴を、突いたつもりだった。時、という穴をな。貴公は、その穴に、掛け金という蓋を、した。しかも、私が突いたから、蓋ができた。――またしても、私は、貴公の蔵を、頑丈にしに来ただけか」
*
「宰相ファルク」
レオノーラは、静かに、彼に向き直った。「一つ、申し上げます。あなたは、今日、鉄で人を脅す力を、失いました。それは、確かです。――ですが、失っただけでは、ありません」
彼女は、条文の、首席供給者の一行を、指し示した。
「あなたは、大陸で、いちばん大きな買い手を、得ました。ばらばらの国に、脅して売る商いは、脅すたびに、恨みを買い、いつか束になって、返されます。けれど、蔵という、一つの大口に、乞われて売る商いは、恨みを、生みません。積み上がるだけです。――あなたは、鞭を一本、失って、崩れない上客を、一人、得た。長い目で、どちらが得か。あなたなら、とうに、算盤を弾いておられるはずです」
ファルクは、答えなかった。答える代わりに、彼は、椅子に、深く、背をあずけた。長い交渉の果てに、ようやく肩の荷を下ろす者の、所作だった。
「……アーレンス殿。私は、長く、外交を、力の削り合いだと思ってきた。相手の力を削り、こちらの力を、盛る。その繰り返しだと。だが、貴公は、私の力を、削らなかった。形を、変えた。鞭を、上客に。恐怖を、信用に。――私は、負けた気が、せぬ。だが、勝った気も、せぬ」
「引き分けで、ございます」
「引き分け、か」ファルクは、低く笑った。「貴公は、私の刃を、鈍らせた。だが、私の商いは、増やした。……ああ。引き分けだ。実に、業腹な、引き分けだ」
彼は、痩せた手を、卓の中央へ、差し出した。署名の、筆を取るために。
円卓の、どの席も、同じ高さだった。鉄を持つ者と、鉄を要る者が、同じ高さで、筆を執った。誰も、誰の上に、いなかった。
(力は、削らずとも、鞭でなくせる。……勝たずとも、負けさせずとも、卓は、対等に、閉じられる)
レオノーラは、その円卓を、東の短辺から、静かに見ていた。カタルシスは、いつも、彼女の、一歩外で起きる。声には、出さなかった。
お読みくださり、ありがとうございます。この章の、いちばんの決め所でした。
ファルクの最後の一手は「時」――安心した国は自国の鉄を掘らなくなり、三年後、床は埃になって、頸木がひとりでに戻る。今日の理屈では崩せない、明日の重さ。レオノーラの答えは「掘り続ける者にだけ、安心を配る」。掛け金を積まぬ国は鍵を失う。怠けが損になる仕掛けで、床は三年後も平らなまま。しかも、ファルクが突いたからこそ、蓋ができた。
そして決着は、引き分け。ファルクは鞭を失い、崩れない上客を得た。「貴公は私の刃を鈍らせた。だが商いは増やした。……業腹な引き分けだ」。憎み合わず、潰し合わず、対等に卓を閉じる好敵手。次回、最終話――鉄の卓の、その先の均衡を描いて、この章を締めます。ブックマーク・評価、ありがとうございます。




