第50話 鉄の卓、その均衡
フリーセンの鍛冶通りに、槌の音が、戻っていた。
朝から、あちこちの炉で、火が上がる。鉄が、流れ始めたのだ。共同鉄蔵から、飢えた国の順に。槌の音は、街の呼吸のように、規則正しく、通りに響いていた。ひと月前、火を落とし損ねた一つの炉だけが、細く燃えていた、あの静けさが、嘘のようだった。
レオノーラ・アーレンスは、ロート商会二階の窓辺で、その音を、聞いていた。卓の上には、一枚の写しがある。鉄蔵協定。円卓で、上座なく、鉄を持つ国と要る国が、同じ高さで署名した、対等の条文だった。
(頸木は、外れた。……緩めたのではなく、締まらない首に、組み替えて)
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「槌の音、いいっすねえ」
ニコが、階段を上がってきた。街道の埃を、肩につけている。
「蔵、ちゃんと回ってるっす。メーアも、サヴァルも、リーゼンも、毎月、自前の鉄を、床に積んでる。掛け金の仕掛けが、効いてるっすね。誰も、掘るのをやめない。やめたら、鍵、失くすから」
「怠けが、損になる。人は、正しく作られた損は、避けます」
「あと――」ニコが、少し笑った。「ヴェルダンの鉄、ちゃんと、蔵に、いちばんいい値で、売れてるっす。ファルク、首席の供給者の一行、消せって言わなかったんすね」
「消せば、面子が下がりますから。いちばん良い鉄を、いちばん高く売る。あの方の面子は、脅していた頃より、むしろ、上がっています」
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昼すぎ、イレーネが、市場の風を運んできた。椅子に腰を落とすなり、指を鳴らす。
「はっ、聞いたかい、お嬢さん。鉄の相場を、裏でこっそり操ってた連中――ヴェルダンの鉄を、右から左に流して、差配で儲けてた仲買どもさ。あいつら、みんな、あがったりだよ」
「蔵が、値を平らにしましたから」
「そういうことさ。相場が、五つの目で、透けて見えるようになっちまった。抜け目のない差配で食ってた連中は、抜け目が、なくなった。……サヴァルの、あの均衡屋の評議長を、覚えてるかい。あれの、鉄版が、大陸中で、干上がってる」
(分断で食う者は、分断が消えれば、干上がる。……鉄でも、塩でも、同じ。誰かを打たずとも、隙が消えれば、消える)
「で、面白いのはね」イレーネが、身を乗り出した。「蔵に入れてくれって、小さい国から、問い合わせが、続々さ。頸木を、外したい国は、まだまだ、いる。お嬢さんの卓は、当分、暇にならないよ」
「卓は、揉め事のある限り、尽きません」
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夕方、ヴェルナー・ロートが、帳場から上がってきた。老商人は、卓の上の写しを、満足げに眺めた。
「で、次はいくらの話だ?」
「まだ、何も」
「ほう」ヴェルナーは、窓の外へ目をやった。「うちが、五つの鍵の、一つを預かってる。錠前は、握れなかった。だが、蔵から、追い出されることも、ない。……この一席は、握った錠前より、ずっと、長く、うちを食わせてくれるだろうよ。お前さんは、うちに、握らせる代わりに、居させた。相変わらず、値のつけにくい仕事をする」
「値は、纏めてから、いただきました。半分ずつ、五つの国から」
「はっ。どこからも、等しく、か。……お前さんの中立は、金の取り方にまで、染みついてやがる」
ヴェルナーは、笑って、帳場を下りていった。彼の商機と、彼女の中立は、今日も、同じ卓の上で、互いを、下ろさずにいた。
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その夜、二通の手紙が、届いた。
一通は、リーゼンの、封蝋だった。ニコが、少し緊張した顔で、それを卓に置く。差出人は、王太子ロデリック。文面は、短く、飾りがなかった。
『レオノーラ。
リーゼンは、床に、石を積み続ける。餌には、二度と、釣られぬ。若いベルガーも、この一件で、ずいぶん、育った。
お前を、取り戻そうとは、もう思わぬ。お前は、リーゼンのものでは、なくなった。大陸の、卓のものになった。……それを、惜しいとは思う。だが、間違っていたとは、もう、思わぬ。
いつか、リーゼンが、正式に、対等の卓で、お前と向き合う日が来るなら。そのときは、駒としてではなく、一国として、席を乞う。それまで、達者で。
ロデリック』
レオノーラは、それを、二度読んだ。
(この人は、私を、手放した。……惜しみながら、正しく。切ったときより、ずっと、まっとうな、手放し方で)
復縁の言葉は、どこにも、なかった。詫びも、未練も。あるのは、一国の首を、まっとうに預かる者の、静かな覚悟だけだった。彼女は、その手紙を、卓の抽斗に、そっと仕舞った。捨てはしなかった。けれど、返事も、急がなかった。
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もう一通は、装飾のない、痩せた紋だった。
『貴公に、一本、取られた。業腹だが、悪くない負け方だった。いや――引き分けだったな。
鉄蔵は、うまく回っている。私の鉄は、恨まれずに、売れている。恨まれぬ商いが、これほど、静かで、楽なものだとは、知らなんだ。長く、鞭ばかり握ってきた手には、少々、拍子抜けがするほどだ。
塩が動き、鉄が動いた。次に、何が動くかは、まだ、量らぬ。だが、何が動くにせよ――そのとき、卓の真ん中に座っているのは、たぶん、また、貴公だろう。
その日を、楽しみにしている。好敵手として。
ファルク』
レオノーラは、それを読んで、ごく静かに、口の端を、緩めた。
(好敵手、と書いてくれた。……敵でも、味方でもなく。卓を、挟む甲斐のある相手として)
二通の手紙は、どちらも、彼女を、どこかへ連れ戻そうとは、しなかった。かつての国も、かつての敵も、彼女を、対等の卓の、真ん中の人として、認めていた。戻る席ではなく、これから挟む、卓として。
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ニコが、街道のほうを見て、言った。
「レオノーラさん。塩の次は、鉄で。……次は、何が動くんすかね」
「さあ。人か、言葉か、それとも、まだ名前のない何かか」
レオノーラは、新しい白紙を一枚、引き寄せた。
「けれど、何が動いても、やることは、同じです。上座を、なくす。面子を、立てる。実利を、分ける。誰のものでもない卓を、組む。――卓の中身が、塩でも、鉄でも、人でも。整え方は、変わりません」
彼女は、その一枚を、しばらく見つめた。窓の外で、鍛冶の槌が、規則正しく、鳴っている。街の、健やかな呼吸のように。それから、ごく静かに、内心で締めた。
(対等の卓は、また一つ、閉じられた。――そして、次の卓は、もう、どこかで、揉め始めている。次は、どこに、座りましょうか)
筆を執る音だけが、夜のロート商会に、小さく残った。槌の音と、混ざり合いながら。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。第二部第二章「鉄の卓」、これにて一区切りです。
まばらだった鍛冶の槌の音が、街いっぱいに戻りました。鉄の頸木は、外れたのではなく、締まらない首に組み替えられた。ヴェルダンは恨まれずに鉄を売り、各国は掛け金を積み続け、床は平らなまま。分断で儲けていた者は、誰にも打たれず、ひとりでに干上がる。第一部から続く「敵を打たず、隙を消す」が、いちばん大きな卓で結実しました。
王太子ロデリックは、彼女を「惜しみながら、正しく」手放しました。かつての敵ファルクは、「好敵手」と呼びました。かつての国も、かつての敵も、彼女を、対等の卓の真ん中の人として認めています。戻る席ではなく、これから挟む卓として。
塩が動き、鉄が動いた。次は、何が動くのか――物語は、まだ続きます。引き続き、レオノーラの段取りを、見届けていただけたら幸いです。ブックマークと評価が、次の一行目を書く手の、いちばんの支えです。どうか、もう一席だけ、お付き合いください。




