第46話 天秤の、乗せ方
ヴェルナー・ロートは、鉄蔵の絵を、長いこと、眺めていた。
老商人の目が、こんなに輝くのを、レオノーラは、久しく見ていなかった。彼は、絵の中央の、四角い箱を、指でとんとんと叩いた。
「お前さん。これが、フリーセンに建つ。……分かってるか。これは、塩の道の、比じゃない」
「分かっております」
「各国の鉄が、ここに集まる。ここで、量られ、預けられ、引き出される。その帳簿を、誰が付ける? 出し入れの手数を、誰が取る? 蔵の錠前を、誰が握る?――握った者が、大陸の鉄の、心の臓を、握るんだ」
ヴェルナーの声が、低く、熱を帯びた。
「ロート商会が、その蔵を、預かる。俺たちが、運ぶ。俺たちが、量る。俺たちが、錠前を握る。――なあ、アーレンス。フリーセンには、それだけの、蔵も、船も、帳場もある。よその馬の骨に握らせるより、うちが握ったほうが、よほど、まともに回る。違うか」
*
(来たわね。……いちばん大きな、天秤の乗せ方)
レオノーラは、絵を挟んで、老商人に向き直った。
「ヴェルナーさん。一つだけ、伺います。――もし、ロート商会が、その錠前を握ったら。ドレンとラゴサは、いえ、メーアも、サヴァルも、リーゼンも、その蔵を、信じますか」
ヴェルナーの、熱が、止まった。
「あの国々が、鉄蔵に石を積むのは、それが『誰のものでもない』からです。フリーセンのものでも、ロート商会のものでもない。だから、預ける。だから、抜けない。――けれど、錠前を、ロート商会が握った瞬間、蔵は、『ロート商会の蔵』になります。各国は、こう思う。『いざとなれば、ロートが、フリーセンに都合よく、鉄を回すのではないか』と」
「……それは、思うだろうな」
「思った瞬間、床は、傾きます。傾いた床から、人は、滑り落ちる。――ファルク様が、待っているのは、まさに、その瞬間です。『ほら、中立の蔵など、結局、フリーセンの私物だ』と。ヴェルダンが囁くより先に、私が、蔵をロート商会の私物にすれば、ファルク様の仕事を、私が代わりに、してしまうことになります」
ヴェルナーは、腕を組んで、天井を見上げた。それから、長い息を吐いた。あの、塩の道のときと、同じ息だった。
「……また、それか。金で動いた一行は、もっと大きな金で、逆に動く、ってやつだ」
「ええ。錠前で握った蔵は、いつか、その錠前ごと、恨まれます」
*
「だが、アーレンス」ヴェルナーは、なお、食い下がった。商人の、最後の意地だった。「錠前は、誰かが、握らにゃならん。蔵ってのは、そういうもんだ。誰も握らねば、盗まれる。中立、中立と言うが――中立の錠前なんてものが、この世に、あるのか」
「あります。一つの手が握らなければ、いいのです」
レオノーラは、絵の箱に、小さな錠前を、いくつも描き足した。一つではなく、いくつも。
「錠前を、一つにしません。蔵の錠は、五つ。メーアが一つ、サヴァルが一つ、リーゼンが一つ、フリーセンが一つ、そして――どの国にも属さぬ、中立の帳簿方が、一つ。五つの鍵が、揃わねば、蔵は、開きません。ロート商会は、そのうちの、一つを預かるだけ。錠前を握るのではなく、五つのうちの、一つになるのです」
「一つに……なる」
「帳簿も、一人では付けさせません。鍵を持つ手が、それぞれ一人ずつ、立会を出す。数字は、五つの目で、同時に検める。メーアとの、いちばん最初の卓を、覚えておいででしょうか。メーアの秤と、王国の秤で、同じ荷を、二度量った。あの話です。――一つの秤を、信じさせるのではない。皆の秤で、同じ数字が出ることを、見せる。それが、中立の錠前です」
ヴェルナーは、しばらく、その五つの錠前を、見ていた。それから、にやりと、笑った。負けを認めた者の、けれど、どこか、楽しげな笑みだった。
「……はっ。錠前を、一つ諦めさせて、そのくせ、うちを、五分の一の、いちばん抜けにくい席に、据えたな」
「気づかれましたか」
「気づくさ。五つの鍵の一つを持つってのは、蔵から、締め出されないってことだ。うちは、錠前を握れなかった代わりに、蔵から、決して追い出されない一席を、手に入れた。――握った蔵は、いつか奪われる。分け持った蔵からは、追い出されん。……お前さんは、うちに、握らせる代わりに、居させたわけだ」
(そう。……握れば、いつか奪われる。分け持てば、ずっと、居られる。手心より、ずっと、この人らしい)
「潤いは、約束できません」
「約束された潤いなんぞ、いちばん嫌いだと、言ったろう」ヴェルナーは、手をひらりと振った。「五つの鍵の一つでいい。あとは、俺の腕で、稼ぐ」
*
その夜、フリーセンに、一葉の書簡が届いた。装飾のない、痩せた紋。ファルクの手だった。
『貴公の蔵の話、聞いた。五つの錠前とやら、悪くない。だが、覚えておくといい。
五つの鍵は、五つの手だ。手は、五つとも、腹を空かせる。腹を空かせた手は、いつか、鍵を、売る。――貴公の中立は、五つの手が、みな、清いという前提の上に、立っている。その前提は、いつまで、もつかな。
私は、いちばん、腹を空かせた手を、知っている。
ファルク』
レオノーラは、それを、二度読んだ。
(腹を空かせた手……リーゼンではない。リーゼンは、床で、支える。では、どの手を。――五つの鍵の、どれか一つを、あの人は、買いに行くつもり)
彼女は、書簡を、卓の端に置いた。ファルクは、蔵の壁を、破ろうとはしない。壁は、頑丈だと、認めている。あの男が狙うのは、壁ではなく、鍵を握る、五つの手のうちの、一つだった。
お読みくださり、ありがとうございます。
鉄蔵をフリーセンに置けば、ロート商会には途方もない商機。ヴェルナーは「うちが錠前を握る」と迫ります。でも、握った瞬間、蔵は「ロートの私物」になり、中立の床は傾く。レオノーラの答えは、錠前を一つにしないこと――五つの鍵、五つの国の手、揃わねば開かぬ蔵。握らせる代わりに、追い出されない一席を。第一部冒頭の「二つの秤で同じ荷を量る」が、ここで効いてきます。
そしてファルクは、蔵の壁を破ろうとはしません。彼が狙うのは、鍵を握る五つの手のうち、いちばん腹を空かせた一つ。次回、中立の弱点をめぐる、静かな攻防です。ブックマーク・評価、心の支えです。




