第45話 釣り針の、餌
エルンスト・ベルガーは、若かった。
三十を、少し出たくらいか。生真面目そうな顔に、いまは、隠しきれぬ疲れが滲んでいる。リーゼン王国の新しい外務卿は、フリーセンのロート商会に通されるなり、深く、頭を下げた。
「アーレンス殿。……お恥ずかしい話で、参りました」
「お掛けください、ベルガー殿。恥は、聞いてから、判じます」
ベルガーは、椅子に掛けても、背を丸めたままだった。
「ヴェルダンから、書状が来ました。リーゼンにだけ、鉄を、これまでの値の、八掛けで回す、と。ただし――鉄の卓には、加わるな、と」
「八掛け」
「リーゼンは、いま、苦しいのです」ベルガーの声が、震えた。「北の畑が、二年、不作で。農具の鉄が、要る。安く、鉄が入るなら……民が、助かる。目の前の、八掛けを、蹴ってまで、いつ立つとも知れぬ卓を、待てるのか。わたしには……その、判断が」
(釣り針に、いちばん甘い餌をつけて、いちばん腹を空かせた口に、垂らしている。……ファルクは、リーゼンの飢えを、正確に知っている)
「ベルガー殿。一つ、伺います。その八掛けは、いつまで、続くと書いてありましたか」
ベルガーが、顔を上げた。
「……期限は、書いて、ありません」
「期限のない安値ほど、高いものは、ありません」
*
「今は、八掛けでしょう。半年、それが続くかもしれない。けれど、卓が崩れ、リーゼンが、ヴェルダンから離れられなくなったころ――値は、静かに、戻ります。十掛けに。十二掛けに。そのとき、リーゼンは、もう、どこにも、逃げ場がない。ほかの国は、束を作ってしまっているからです。遅れて、頸木だけが、リーゼンの首に、残ります」
ベルガーの顔が、青ざめた。
「餌の甘さは、針の鋭さです。甘ければ甘いほど、外れなくなる。――ファルク様は、リーゼンが、いちばん腹を空かせていることを、知っていて、そこに、垂らしています」
「では……どうすれば。加われば、目の前の民が、飢える。加わらねば、いずれ、首が締まる」
「加わってください。そして、目の前の民も、飢えさせません」
ベルガーが、まばたきをした。
「共同の鉄蔵は、飢えた国を、先に助ける仕組みにします。床の鉄を、いちばん苦しい国から、回す。リーゼンの畑の農具は、蔵が、支えます。――八掛けの餌を、蹴らずに済みます。餌より、床のほうが、確かだからです。針のついた安値より、皆で積んだ床のほうが」
*
そのとき、階下で、ニコの、ひときわ硬い声がした。
「レオノーラさん。……あの、その」
階段を上がってきたのは、ベルガーの供ではなかった。仕立ての良い、けれど簡素な旅装の、長身の男だった。顔に、見覚えがあった。ありすぎるほど。
リーゼン王国、王太子ロデリック。彼女を「冷たい」と切った、元の婚約者。
室に、短い沈黙が落ちた。ベルガーが、慌てて立ち上がり、頭を下げる。ロデリックは、それを手で制し、レオノーラを、まっすぐに見た。
「……レオノーラ。久しい」
「殿下。――王太子殿下が、供も少なく、中立都市まで。異なことでございます」
「ベルガーを、一人で寄越すのが、恥ずかしくなった」ロデリックは、静かに言った。「鉄のことは、国の、命に関わる。それを、若い者一人に背負わせて、城で報せを待つ。……そういうことを、私は、もう、したくない」
(変わった。……少し。城で、報せを待つ人だったのに)
*
「レオノーラ」ロデリックは、言葉を選ぶように、続けた。「率直に言う。リーゼンは、お前を、必要としている。今も。……戻って、とは、言わぬ。言える立場ではない。だが、お前の卓に、リーゼンを、座らせてくれないか。一国として。頼む」
彼は、王太子でありながら、頭を下げた。深くはない。けれど、確かに、下げた。
レオノーラは、その姿を、静かに見ていた。かつて、この人の一言を待つ位置に、彼女はいた。「助かったよ」と、言われるのを待つ位置に。今、彼女は、その位置から、とうに退いている。だから、頭を下げられても、心は、凪いでいた。
「殿下。お顔を、お上げください。――リーゼンは、座れます。ただし、わたくしの駒として、ではありません。ほかのどの国とも、同じ高さの、一国として。八掛けの餌にも釣られず、床に、同じ重さの石を積む。それが、できるのなら」
「できる。……させる」
「なら、卓に、席は、ございます」
ロデリックは、頷いた。それ以上、何も、言わなかった。復縁の言葉も、詫びの言葉も、口にしなかった。それらは、もう、この卓には、要らないものだった。彼が持ってきたのは、未練ではなく、一国の首の、重さだった。
(この人は、私を取り戻しに来たのではない。国を、まっとうに、座らせに来た。……それでいい。それが、いちばん、いい)
ベルガーが、青ざめた顔に、少しだけ、血の気を戻して言った。
「アーレンス殿。……リーゼンは、餌を、蹴ります。床に、石を、積みます」
「では、そのように」
窓の外、リーゼンの方角の空に、夕日が沈んでいく。彼女を切った国が、今、彼女の卓に、対等の一国として、席を求めている。因果は、半年や一年では効かない。けれど、必ず、遅れて、効く。
お読みくださり、ありがとうございます。
ヴェルダンの釣り針は、いちばん腹を空かせた口=不作に苦しむリーゼンに、いちばん甘い餌を垂らしました。「期限のない安値ほど、高いものはない」――甘い餌の裏には、外れない針があります。
そして、王太子ロデリックが、自ら中立都市へ。かつて城で報せを待つだけだった人が、一国の首の重さを、自分で運んできました。復縁でも詫びでもなく、ただ「一国として座らせてくれ」と。レオノーラは、駒としてではなく対等の一国として、席を用意します。彼女を切った国が、彼女の卓に席を求める――遅行性の因果が、静かに巡っています。
次回、その卓を置く場所=フリーセンをめぐる、雇い主との新しい天秤。ブックマーク・評価、励みにしております。




