第44話 痩せた指の、宰相
ファルクは、供も連れず、たった一人で、峠を越えてきた。
ヴェルダンの宰相が、中立都市フリーセンへ、護衛の一人も伴わずに。それだけで、この男が何者かが、知れた。刃を恐れぬのではない。刃で語る相手を、はなから見ていないのだった。
ロート商会の帳場に通されても、彼は、上座を探さなかった。勧められた椅子に、静かに掛け、痩せた指で、卓の縁を、一度だけ、撫でた。木目を、確かめるように。
「久しいな、アーレンス殿」
声は、低く、飾りがなかった。「あの、更新の卓以来か。あのときは、貴公は、王国とヴェルダンの間に、座っていた。仲介人として。――今日は、正面だな」
「ええ。正面でございます」
レオノーラは、灰緑の茶を、二煎目から、静かに供した。あの更新交渉の卓で学んだ、ヴェルダンの敬意の作法だった。ファルクは、その茶を一瞥し、口の端を、ごくわずかに、動かした。
「灰緑か。……オズワルドが、教えたか」
「あなたの国の作法を、忘れてはおりません。敵の作法を覚えるのは、侮りではなく、敬意でございます」
「よく言う」ファルクは、茶を、一口飲んだ。「その敬意で、私の頸木を、外しに来たか」
*
「単刀直入に、話そう」
ファルクは、椀を置いた。「貴公が、フリーセンに、妙な蔵を建てようとしていると聞いた。各国の、屑のような鉄を、寄せ集めてな。――無駄だ。集めたところで、カルデンの鉄の、十分の一にも満たぬ。あんな床では、冬一つ、越せまい」
「ええ。床だけでは、越せません」
レオノーラは、あっさりと認めた。ファルクの、細い眉が、わずかに動いた。
「床は、皆さんが飢えぬための、最低限。冬を越すには、やはり、良い鉄が要ります。カルデンの鉄が。――ですから、皆さんは、これからも、ヴェルダンから、鉄を買います」
「……ほう」
「けれど、買い方が、変わります。今までは、頸木を嵌められた首で、買っていた。これからは、床の上に立った首で、買う。飢えを恐れずに、買う。――同じ鉄でも、恐れて買うのと、選んで買うのとでは、値も、量も、まるで違ってまいります」
ファルクは、しばらく、彼女を見ていた。痩せた指が、また、卓の縁を、ゆっくりと撫でた。
「力を、削ぐ気か。私の鉄の、力を」
「削ぎません」
レオノーラは、静かに言った。「鉄の力は、そのままです。カルデンの鉄が、いちばん良いことは、変わりません。わたくしが消すのは、鉄の力ではなく、鉄で、人を脅せる力。――力そのものは、あなたの手に、残ります。ただ、それを鞭には、使えなくなる。それだけです」
*
「面白いことを言う」
ファルクは、茶を、もう一口飲んだ。「力は、あるが、振るえぬ。持っているのに、使えぬ。――それは、力と、呼べるのかね」
「呼べます」レオノーラは、迷わず答えた。「良い鉄を、正しい値で、安定して売る。それは、立派な力でございます。ただ、恐怖ではなく、信用の力に、変わるだけ。恐怖の力は、いつか、束になって返されます。信用の力は、返されません。積み上がります。――どちらが、長く続く力か。あなたなら、お分かりのはずです」
ファルクは、答えなかった。答える代わりに、彼は、はじめて、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。笑みとも呼べぬ、口元の、かすかな緩みだった。
「貴公は、相変わらず、私を、憎まぬな」
「憎んで、卓は動きません。あなたを憎めば、あなたを潰したくなる。潰せば、恨みが残り、鉄はまた、別の鞭になる。――わたくしは、あなたを潰しに来たのではありません。あなたと、対等の商いを、組みに来たのです」
「対等の、商い」
ファルクは、その言葉を、口の中で、転がした。それから、立ち上がった。長居はしない、という所作だった。
「気に入らぬな。……いや」彼は、言い直した。「気に入らぬ、と言えぬのが、気に入らぬ」
*
戸口で、ファルクは、足を止めた。振り返らずに、低く言った。
「一つ、忠告しておこう。貴公の床は、いい思いつきだ。だが、床は、皆が同じ重さの石を、持ち寄って、はじめて平らになる。――一つでも、軽い石があれば、床は、傾く。傾いた床からは、人は、滑り落ちる」
「軽い石、と申しますと」
「さて。貴公の古巣は、近頃、外務の主が、代替わりしたと聞くが。……若い主は、重い石を、持てるのかな」
ファルクは、それだけ言って、出ていった。痩せた背が、峠のほうへ、供も連れず、遠ざかっていく。
ニコが、こわばった顔で言った。
「レオノーラさん。あれ……リーゼンを、狙うって、言ってったんすよね」
「ええ」
レオノーラは、閉じた戸を、静かに見ていた。ファルクは、脅しに来たのではなかった。手の内を、半分、見せに来たのだ。買えぬ相手には、隠すより、見せたほうが、面白い。そういう男だった。
(あの人は、リーゼンから、崩す。……いちばん軽い石から。分かっていて、あえて、教えていった。――受けて立て、ということね)
「ニコ。リーゼンの、エルンスト・ベルガー殿に、文を。――お会いしたい、と」
(軽い石を、責めはしません。軽い石が、滑り落ちない床を、先に、組むだけ)
お読みくださり、ありがとうございます。ファルク、正面の席に着きました。
護衛も連れず、たった一人で峠を越えてくる宰相。刃で語る相手を、はなから見ていない男です。レオノーラの「鉄の力は残す、鉄で脅す力だけを消す」という理屈に、彼は「気に入らぬ、と言えぬのが、気に入らぬ」と返しました。憎み合わない好敵手の、静かな火花です。
そして去り際、ファルクは手の内を半分見せていきました。「軽い石=リーゼン」から崩す、と。脅しではなく、あえて教えて「受けて立て」と。次回、レオノーラは古巣リーゼンの若い外務卿と、卓を挟みます。ブックマーク・評価、いつもありがとうございます。




