第43話 どこにも、属さない蔵
オズワルド・カイは、麦湯に、手をつけなかった。
灰緑の茶でなかったことを、咎めもしなかった。ただ、卓の上で、指を組み、用件だけを、静かに置いた。
「宰相ファルクは、あなたと、事を構えることを、望んでおられません」
「では、何を」
「望んでおられるのは、住み分けです」オズワルドは、慇懃に言った。「あなたが、鉄の卓から、手をお引きになる。それだけで、ヴェルダンは、フリーセンに――そしてロート商会に、鉄を、優先して回しましょう。ほかのどの国よりも、安く、多く。あなたの新しい居場所は、鉄に困らぬ街になる」
(買いに来た。……私の中立を。フリーセンごと)
「わたくしが手を引けば、ほかの国は、頸木のままですね」
「ほかの国のことは、ほかの国の話です。あなたは、フリーセンの渉外だ。フリーセンさえ潤えば、務めは果たせる。――違いますか」
レオノーラは、静かに、麦湯の椀を、オズワルドの前へ、少しだけ寄せた。
「オズワルド様。あの更新交渉の卓で、あなたと灰緑の茶を挟んだとき、わたくしは、学びました。あなたは、面子を、何より重んじる方だと。――ですから、率直に申します。この申し出を、わたくしが受ければ、わたくしは、フリーセンの犬になります。一つの国に、鉄で飼われる交渉人に。それは、あなたが軽んじる類の、面子の話です」
オズワルドの、隙のない所作が、わずかに、止まった。
「わたくしは、フリーセンを、鉄で肥えた街にはしません。誰かの鉄で肥えた街は、その誰かに、首を握られます。――お引き取りください。宰相には、こうお伝えを。『住み分けは、いたしません。同じ卓で、お会いしましょう』と」
オズワルドは、長い沈黙のあと、立ち上がった。灰緑の香りが、かすかに揺れた。
「……宰相は、あなたを、買えぬ相手だと言っておられた。どうやら、そのとおりだ」彼は、頭を下げた。「では、卓で。アーレンス殿」
*
オズワルドが去ると、ニコが、詰めていた息を吐いた。
「レオノーラさん、断っちゃって、よかったんすか。フリーセンに鉄、優先して回すって……ヴェルナーさん、喜ぶ話じゃ」
「喜ぶでしょうね。半年は。――そのあと、ヴェルダンは、その鉄を、鞭に持ち替えます。『優先をやめられたくなければ、言うことを聞け』と。優先とは、いつでも、取り上げられる首輪です」
彼女は、卓に、新しい紙を広げた。
「さて。糸口が、見えました」
「見えたんすか」ニコが、身を乗り出した。
「オズワルド様が、教えていってくれました。ヴェルダンの手は、たった一つ。――『鉄を、回すか、止めるか』。それだけです。回すと囁いて釣り、止めると脅して従える。手が一つなら、その手が効かなくなる形を、作ればいい」
*
その夜、レオノーラは、ハーロ・ヴェントを、ロート商会に招いた。卓の上に、一枚の絵を広げる。
「ハーロ様。これまでの卓が、なぜ立たなかったか。それは、卓の作り方が、逆だったからです」
「逆」
「皆さんは、『ヴェルダンから、束になって、安く買う卓』を作ろうとしていた。――ですが、それは、結局、ヴェルダンから買う話です。買う限り、ヴェルダンは、誰か一人に囁けば、束を崩せる。買い手の束は、売り手の囁きに、いつも、弱い」
「では、どうしろと。ヴェルダンから、買わずに済むとでも」
「済みます。まず、床を、作れば」
レオノーラは、絵の中央に、フリーセンを描いた。そして、その上に、四角い箱を、一つ。
「フリーセンに、誰のものでもない蔵を、一つ、建てます。共同の鉄蔵です。メーアも、サヴァルも、リーゼンも、自国で細々と採れる鉄を――一国では、武具にも足りぬ、わずかな鉄を、そこへ、持ち寄る。塵も、積もれば、床になります。ヴェルダンの鉄がなくても、皆で食いつなげるだけの、床が」
ハーロの目が、見開かれた。
「その蔵は、どの国のものでもありません。フリーセンのものでも、ロート商会のものでもない。中立の蔵です。――そして、この蔵があれば、ヴェルダンが、どこか一国の鉄を止めても、蔵が、穴を埋める。止められた国は、飢えない。飢えないなら、囁きに、釣られない」
「囁きが……効かなくなる」
「はしごを外される最後の一人が、いなくなります。蔵が、全員の足元にあるからです。誰も、抜ける必要がない。誰も、抜けたほうが得、にならない。――恐れが、消えます」
ハーロは、絵を、食い入るように見ていた。それから、深く、長い息を吐いた。一年、彼の肩に載っていた重石が、その一枚で、静かに軽くなったようだった。
「……アーレンス殿。私は、束を、強く縛る紐を、探しておりました。どうすれば、抜けられぬよう、国々を縛れるか、と。あなたは、縛らなかった。縛る代わりに――抜ける理由の方を、消した」
「縛った束は、いつか、切れます。抜ける理由がない束は、ほどけません。――束ねるのではなく、ほどけない形に、置くのです」
(頸木を、外すのではない。頸木が、締まらない首を、作る。……買う卓の前に、頼らずに済む床を)
*
「ですが」ハーロの顔に、また、翳りが差した。「ヴェルダンが、それを、黙って見ておりましょうか。……いや。宰相ファルクは、必ず、この蔵を、潰しに来る」
「来るでしょうね」
レオノーラは、絵の端に、もう一つ、痩せた輪郭を描いた。卓の、向こう側の席。
「ですから、その方には、蔵を潰しに来る前に――同じ卓に、着いていただきます。潰す相手としてではなく、談じる相手として。頸木の指を、卓の上に、載せていただく」
「宰相を、卓に……引っぱり出せると」
「引っぱり出しはしません。ご自分で、来られます。買えぬ相手が、何を作るのか。あの方は、それを、見たくてたまらないはずですから」
窓の外、鍛冶通りの闇の奥で、火を落とし損ねた炉が、まだ一つ、赤く、息をしていた。その小さな火が、床の、最初の一片のように、レオノーラには見えた。
お読みくださり、ありがとうございます。今回は、この章の「糸口」の回です。
これまでの鉄の卓は「ヴェルダンから束になって買う卓」でした。でも買う限り、売り手の囁き一つで束は崩れる。レオノーラの発想は逆――買う卓の前に、まず「頼らずに済む床」を作る。各国のわずかな自前の鉄を持ち寄り、誰のものでもない中立の蔵に積む。蔵が穴を埋めるなら、鉄を止められても飢えない。飢えないなら、囁きに釣られない。「はしごを外される最後の一人」が、いなくなる。
頸木を外すのではなく、頸木が締まらない首を作る。次回、いよいよファルクが、正面の席に着きます。ブックマーク・評価、心の支えです。




