第41話 鉄の、頸木
フリーセンの鍛冶通りは、この頃、槌の音が、まばらだった。
鉄が、高い。いや、高いだけならまだいい。手に入る量が、月ごとに、痩せていく。鍛冶屋は、注文を断り、炉の火を落とす日が増えた。槌の音がまばらな街は、どこか、息を詰めているように見えた。
レオノーラ・アーレンスは、ロート商会二階の窓辺で、その静かすぎる通りを、見下ろしていた。卓の上には、先日ファルクから届いた一葉が、まだ置かれている。
『塩の次は、鉄が動く』
(動きました。……ずいぶんと、静かに)
*
「メーアから、お客さんっす」
ニコが、階段の下から声を上げた。上がってきたのは、恰幅のいい、五十がらみの男だった。旅装だが、仕立ては良い。目つきに、算盤を弾き慣れた者の、油断のなさがある。
「アーレンス殿。メーア都市同盟で、交易の監督を預かっております、ハーロ・ヴェントと申します」
「ハーロ様。お噂は、伺っております。――お掛けください」
男は、腰を下ろすなり、単刀直入に切り出した。時を金と数える者の、話し方だった。
「率直に申します。我々は、鉄に、頸木を嵌められております」
「鉄に」
「ヴェルダンです」ハーロは、苦い顔をした。「良質の鉄は、ヴェルダンの北、カルデンの鉄山と精錬所から出る。大陸のこちら側で、武具にも農具にも使える鉄を、まとまった量で出せるのは、実のところ、ヴェルダンだけだ。……メーアも、サヴァルも、リーゼンも、鉄となれば、ヴェルダンから買うしかない」
「そして、ヴェルダンは、その量と値を、握っている」
「握って、締めております」
*
ハーロは、指を折って数え上げた。
「去年、メーアがヴェルダンの通商条件に難色を示したら、翌月、鉄の割り当てが、二割減りました。理由は『炉の不調』。今年、サヴァルが関税で揉めたら、やはり、鉄が、細った。……偶然ではない。ヴェルダンは、鉄を、外交の鞭にしております。逆らえば、鍛冶の火が消える。農具が作れねば、畑が痩せる。剣が打てねば、国境が心もとない。鉄は、もはや、ただの品ではない。首に嵌められた、輪です」
レオノーラは、静かに聞いていた。窓の外、火を落とした鍛冶屋の煙突が、細く見える。
「メーアだけでは、抗えません。サヴァルだけでも。リーゼンだけでも。……ですが、もし、鉄を要る国が、みな寄り合って、一つの卓を作れたら。ヴェルダン一国に、束になって向き合えたら――値も量も、一国では吞まされる条件を、対等に、談じられるのではないか。そう、考えました」
「対等な、鉄の卓」
「さよう。ですが」ハーロの声が、重くなった。「その卓が、どうしても、立たんのです。もう一年、試みて、立たん。……アーレンス殿。あなたは、サヴァルの、名前の順で止まった卓を、立ててみせたと聞く。ならば、鉄の卓も。どうか、中立の仲介を」
レオノーラは、しばらく、答えなかった。
(鉄を要る国は、みな、卓を望んでいる。望んでいるのに、立たない。……サヴァルと、同じ匂いがする。望みが揃っているのに、動かない卓には、たいてい、望みを揃わせない誰かの、手がある)
「ハーロ様。一つ、伺います。その卓が立たぬのは、なぜだと、お考えですか」
ハーロは、口ごもった。それから、正直に言った。
「……分かりません。皆、望んでいる。なのに、いざ寄ろうとすると、誰かが、抜ける。前の日まで乗り気だった国が、朝には、手を引いている。まるで、夜のうちに、誰かが囁いて回っているように」
「囁いて、回る」
レオノーラは、その言葉を、静かに繰り返した。サヴァルの峠で聞いた、両岸への囁きを、思い出していた。
「引き受けましょう。――ただし、これは、名前の順序より、ずっと、根の深い卓です」
*
ハーロが宿へ発ったあと、ニコが、卓を片づけながら言った。
「レオノーラさん。鉄って、そんなに、握られちゃうもんなんすね。塩とは、わけが違うっす」
「ええ。塩は、なくても、しばらくは生きられます。けれど、鉄は――農具にも、武具にもなる。鉄を握るとは、畑と、国境を、同時に握るということ。ヴェルダンは、いちばん深い頸木を、選んで握っています」
「相手、でかすぎませんか。……一国ぜんぶを、卓に引っぱり出すって」
「引っぱり出すのは、ヴェルダンではありません」
レオノーラは、ファルクの一葉を、そっと指で押さえた。
「一人です。この頸木の締め具合を、指で加減している人が、一人。――塩のときと、同じ。顔のある相手が、また一人、卓の向こうにいます」
彼女は、その一葉を、二度、読んだ。『そのとき、貴公の正面に座るのが――さて』。
(座りましょう。――今度は、遠景ではなく。正面から)
窓の外で、鍛冶の槌が、ひとつ、遠慮がちに鳴った。火を落としきれなかった炉が、まだ一つ、どこかで、燃えているらしかった。
第二部第二章「鉄の卓」、始まりました。第四十話でファルクが予告した「塩の次は、鉄」――その卓が、いよいよ立ち上がります。
塩は、なくても生きられる。けれど鉄は、農具にも武具にもなる。それを一国が握れば、畑と国境を同時に握れてしまう。ヴェルダンの宰相ファルクは、いちばん深い頸木を選んで、指先で締め加減を操っています。
そして今度こそ、レオノーラはファルクと「正面から」向き合います。遠景の書簡ではなく、同じ卓を挟んで。次回、なぜ鉄の卓が立たないのか――その根の深さに踏み込みます。
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