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第40話 対等の卓、その始まり

 フリーセンの朝は、やはり、両替商の鈴の音から始まった。


 峠から下りて、十日が過ぎていた。レオノーラ・アーレンスは、ロート商会二階の窓辺で、その音を聞いていた。卓の上には、一枚の写しがある。セルカ峠協定。二つの名が、同じ高さに並び、その初めに、古き誉れと、運ぶ誉れとが、同じ一文の中に刻まれた、対等の条文だった。


(塩の道が、一本になった。……誰の名も、先には、書かれずに)


 二割は、すでにロート商会の帳場に積まれている。ドレンから、半分。ラゴサから、半分。纏まらねば一銭も取らぬ約定だったが、これは、纏まった。二つの家の、同じ額の、半分ずつ。中立の値が、中立の形で、彼女の卓に、載っていた。


 ニコが、街道の埃を肩につけたまま、階段を上がってきた。


「レオノーラさん、山から、報せっす。……ドレンの塩、麓の関を通って、ちゃんと、正しい値で、平地に流れ始めたって。サビナさん、関の帳場で、めちゃくちゃ忙しそうにしてるらしいっす」


「そう」


「イグナーツさんは、協定の写しを、邑のいちばん高い棚に、飾ったそうっす。『最も古くより守りきたる家、ドレン』の、あの一文のとこだけ、指でなぞって、毎朝、眺めてるって」


 レオノーラは、わずかに、笑った。


「面子が、立っているのですね」


「立ってるっす。二人とも」


 *


 昼すぎ、イレーネが、市場の風を運んできた。椅子に腰を落とすなり、指を一本、立てる。


「はっ、聞いたかい、お嬢さん。橋番の、ロタール・カシスさ」


「評議長は、どうなさいました」


「どうも、こうも」イレーネは、にやりとした。「塩の道が一本になったとたん、南の他の家々が、こぞって言い始めたんだ。『うちの揉め事も、評議じゃなくて、峠の立会で収めてくれ』ってね。……四十年、あの男が握ってた、仲裁の椅子さ。誰も、座らせてくれなんて、頼まなくなった。均衡を売る店の前に、客が、一人も、並ばなくなったのさ」


(分断が、金になっていた。分断が、消えれば、その金も、消える。……誰が打たなくても、因果が、椅子を、外す)


「潰したわけじゃ、ないんだねえ」イレーネは、少し、感心したように言った。「あんたは、あの男を、罵りもしなかった。罪に、問いもしなかった。ただ、道を、一本にした。それだけで、あの男の商売は、ひとりでに、干上がっちまった。……あんたのやり方は、いつも、そうだ。手を汚さずに、隙を、消す」


「隙が消えれば、そこで食べていた人は、別の食い扶持を、探すだけです。それは、その人の、次の卓の話です」


「相変わらず、冷たい言い方をするねえ」


「事実しか、申しませんから」


 イレーネは、声を上げて、笑った。


 *


「そういや」イレーネは、思い出したように付け足した。「ヴェルダンの塩問屋、山から手を引いたよ。ドレンの塩が、正しい値になっちまったからね。安く叩けなくなったら、旨みがない。――遠くの買い手は、静かに、消えたのさ」


(扉を、閉めた。……憎まずに、ただ、閉めた。あの方は、入れなくなっただけ)


 夕方、ヴェルナー・ロートが、帳場から上がってきた。老商人は、卓の上の二割を、満足げに眺めた。


「で、次はいくらの話だ?」


「まだ、何も」


「ほう」ヴェルナーは、窓の外へ目をやった。「うちの荷が、昨日、セルカの塩を、初荷で積んだよ。誰より、早くな。……お前さんが、色を付けなかったから、俺は、誰にも遠慮せず、いちばん良い隙に、飛び込めた。約束された潤いより、ずっと、旨い」


「道が、一本になったからです。私の、手柄では、ありません」


「分かってるさ」老商人は、笑った。「お前さんは、道を作っただけ。通ったのは、俺の腕だ。――それで、いい。それが、いちばん、後腐れがない」


 レオノーラは、写しに、目を落とした。この協定は、もう、彼女がいなくても、動く。峠の立会は、古老が見届け、山のどの家も、破れない。彼女が、頭の中に、抱え込む必要は、ない。


(かつて、王国は、外交を、私に、紐づけた。私が抜けたら、止まった。……今度の卓は、逆。私が抜けても、止まらない。誰のものでもない道は、誰か一人に、紐づかない)


 属人化した糸を、解いて置き直す。かつて、母が、一行を戻したように。今度の娘は、道を一本、誰のものでもない峠の上に、架けて、そして、手を離した。手を離しても、道は、残った。それが、答えだった。


 *


 その夜、二通の手紙が、届いた。


 一通は、ドレンと、ラゴサの、連名だった。連名――一年、名の順で争った二人が、同じ紙に、同じ高さで、名を並べていた。短い、礼の文だった。『次の峠でも、卓が要るときは、また、あなたを』。


 もう一通は、装飾のない、痩せた紋だった。ニコが、それを見て、声を落とした。


「……また、ヴェルダンの、宰相のやつっす」


 レオノーラは、封を検めた。文面は、短かった。


『貴公は、また一つ、道を繋いだ。私の卓の議題も、また一つ、増えた。約束どおりだ。


 塩の次は、鉄が動く。鉄が動けば、次に立つ卓は、もう、山の小さな峠では、済まぬ。そのとき、貴公の正面に座るのが――さて。


 まだ、量らぬ。だが、そう遠くない。


 ファルク』


 レオノーラは、それを、二度読んだ。


(塩の次は、鉄。……あの方の卓は、もう、動き始めている。次に対等の卓を挟むのは、あるいは、あの人)


「レオノーラさん。次、その、ファルクと……やり合うことに、なるんすかね」


「なるかもしれません。ならないかもしれません」


 彼女は、手紙を、卓の端に置いた。あの更新交渉の終わりに、そうしたように。すぐには、返さない。返す文には、足元を見られる隙がある。


「それを決めるのは、その卓です。――味方か、敵か。卓が、決めます」


 窓の外で、両替商の鈴が、もう一度、鳴った。相場が、また、動いた合図だった。


 ニコが、街道のほうを見て、言った。


「フリーセンって、やっぱり、変な街っすね。城壁がないのに、どこより安全で。……どこの国のものでもないのに、いちばん、卓が、集まってくる」


「卓は」


 レオノーラは、新しい白紙を一枚、引き寄せた。


「誰のものでもない場所に、いちばん、集まります。上座のない卓に、人は、いちばん、安んじて着ける。――対等の卓は、これから、いくらでも、立ちます」


 彼女は、その一枚を、しばらく見つめた。それから、ごく静かに、内心で締めた。


(黙した外交は、終わった。対等の卓が、始まった。……次は、どこに、座りましょうか)


 筆を執る音だけが、夜のロート商会に、小さく残った。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。第二部「対等の卓」、その第一章――サヴァル「セルカ峠協定」の一件、これにて一区切りです。


 名前の順で一年止まった山の道を、レオノーラは「上座のない卓」に組み直して、開きました。均衡を売る男は罵倒されずに商売を干上がらせ、遠くの買い手は憎まれずに扉を閉じられ、二つの家は、同じ高さで名を並べた。――第一部が「属人化した職能の価値」なら、今度の彼女は、自分に紐づかない道を作りました。手を離しても、残る卓を。


 そして、遠くでヴェルダンの宰相が、静かに次の卓を動かし始めています。塩の次は、鉄。対等の卓を挟んで、いつか、正面に座るのは――。


 物語は、まだ続きます。次の卓は、どこに。引き続き、レオノーラの段取りを、見届けていただけたら幸いです。ブックマークと評価が、次の一行目を書く手の、いちばんの支えです。どうか、もう一席だけ、お付き合いください。

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