第39話 二つの名を、同じ高さに
立会の朝、峠の上に二つの家が登ってきた。
東の道から、ラゴサのサビナ・コルト。日に灼けた隊商あがりの女だった。眼が、値踏みするように鋭い。西の道から、ドレンのイグナーツ・モーレン。銀の留め具の名代を従えた、痩せた老貴族。背は、山のように動かなかった。
二人は峠の上で、はじめて互いの顔を、正面から見た。一年、名の順で争ってきた二人が、である。
そして、その二人の少し後ろから――柔らかな笑みを浮かべた男が一人、登ってきた。連合評議長、ロタール・カシス。橋番は、やはり峠まで登ってきていた。
「これは、めでたい席だ」
ロタールは、朗らかに言った。「二つの家が、同じ峠に。……ですが、イグナーツ殿。一つ、老婆心ながら」
彼はイグナーツに、そっと囁くように、けれど皆に聞こえる声で言った。
「この『セルカ峠協定』とやら――峠の名を、冠するそうですな。つまり、ドレンの名も、ラゴサの名も、協定の顔からは、消える。何百年、山の塩を守ってきたモーレンの家の名が、麓の新参の名と、一緒くたに、峠の陰へ、隠される。……それが、対等というものですかな。私には、どうも、古い家への、侮りに、見えますが」
イグナーツの動かなかった背が、わずかにこわばった。
(来た。……格と、面子。この人の最後の手)
*
「ロタール様」
レオノーラは、静かに前へ出た。「一つ、確かめさせてくださいませ。イグナーツ様が、惜しんでおられるのは――協定の顔に、ドレンの名が、載らぬこと。それで、よろしいでしょうか」
イグナーツは答えなかった。答えない沈黙が、肯定だった。
「では、載せます」
レオノーラは、そう言った。ロタールの笑みが止まった。
「協定の名は、『セルカ峠協定』。これは、変えません。二つの家を、競わせぬために。――けれど、協定の初めに、一文を、置きます」
彼女は卓の上に紙を広げ、そこに書いた。皆が覗き込んだ。
――『セルカの塩を、最も古くより守りきたる家、ドレン。その塩を、遠く広く、平地へと運びきたる家、ラゴサ。両家、ここに、峠を挟みて相並ぶ』。
「ドレンは、『最も古くより守りきたる家』。これは、順序では、ありません。事実です。ドレンが、最も古い。それは、古老様が、証してくださる。――誰も、否めない、事実です」
シメオンが火のそばで、しわがれた声で言った。
「ドレンの塩は、この山で、いちばん古い。それは、真だ」
「ラゴサは、『遠く広く、平地へと運びきたる家』。これも、事実です。ラゴサがなければ、ドレンの塩は、蔵で固まったまま。――この二つは、上下では、ありません。役割が、違うだけ。古さで、ドレンが。広さで、ラゴサが。それぞれ、譲れぬ誉れを、同じ一文の中に、同じ高さで、置いています」
*
「そして、実の話を、いたします」
レオノーラは、続けた。「関は、麓の、ラゴサに置きます。税を検め、通行を捌く。――これは、実務です。高地のドレンに、隊商を捌く関を置いても、回りません。ドレンの誉れは、塩を、生むこと。ラゴサの誉れは、塩を、運ぶこと。関は、運ぶ側の、麓に置くのが、理にかなっています」
サビナ・コルトの鋭い眼が、はじめて動いた。関が麓に置かれる――それは、ラゴサにとって確かな実の利だった。
「イグナーツ様」レオノーラは、老貴族に向き直った。「ドレンは、関の煩わしさを、負いません。塩を生み、その古き誉れを、協定の初めに刻まれる。ラゴサは、関を負い、その労に見合う、運ぶ者の利を得る。――どちらが、上でしょうか」
イグナーツは長い間、その一文を見ていた。『最も古くより守りきたる家、ドレン』。何百年の家名が、消えるのではなく刻まれていた。麓の新参の後ろでも、前でもなく――同じ、一文の中に。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……古さを、誉れとして刻み、実務を、麓に譲る。面子と、実利を、分けた、か」
「面子は、立てるもの。実利は、分けるもの。混ぜると、一年、止まります」
イグナーツの痩せた頬が、かすかに緩んだ。それは、笑みにいちばん近い何かだった。
「……悪くない。悪く、ないな」
*
ロタール・カシスの笑みは、もうどこにもなかった。
彼の握っていた、たった一枚の手札――「格」と「面子」の揺さぶり。それは、面子を立てられ、実利を分けられた二つの家の前で、行き場を失っていた。彼は、何も囁けなくなっていた。囁くべき隙が、卓の上から消えていた。
「ロタール様」
レオノーラは彼に向き直った。声は、静かだった。責める色はなかった。
「この立会は、評議より古い掟。あなたの招集を、必要としません。……ですが、わたくしは、あなたを、この峠から、追いはしません。どうか、立会人の、お一人として、見届けてくださいませ。連合評議長として。――二つの家が、対等に並ぶ、その瞬間を」
それは、慈悲ではなかった。逃げ道でもなかった。ただ、彼が四十年売ってきた「均衡」が、もう誰にも買われぬ品になったことを、彼自身の目で見せる席だった。
ロタールはしばらく動かなかった。それから、ごく浅く頭を下げた。何かを言おうとして、言えなかった。売る品を失った商人の顔で、彼は卓の外に立った。
*
古老シメオンが、丸い石を卓の中央に据えた。その上に、筆が二本、置かれた。同じ長さの、同じ筆だった。
「両家。石に、手を」
サビナと、イグナーツが、同じ石の上に、手を置いた。高地の手と、麓の手が、同じ高さで、並んだ。
「――書け」
古老の、しわがれた合図で、二本の筆が、同じ瞬間に、動いた。先も、後も、なかった。二つの名が、同じ高さに、並んだ。一年、動かなかった一行が、たった一つの朝に、二人の手で、同時に、書き終えられた。
峠の風が、塩の匂いを運んできた。
(二つの名が、同じ高さに、並んだ。……上座の、ない卓)
レオノーラは内心で、ごく静かにそれを見届けた。声には、出さなかった。カタルシスは、いつも、彼女の、一歩、外で起きる。
橋番ロタールの最後の手は「格と面子」でした。何百年の家名が峠の陰に消える、それは古い家への侮りではないか――屁理屈ではなく、本物の面子の傷です。
レオノーラの答えは、第一部から一貫しています。「面子は立てるもの、実利は分けるもの。混ぜると止まる」。古さの誉れをドレンに、運ぶ実利をラゴサに。どちらも上ではなく、同じ一文の、同じ高さに。
均衡を売る男の敗北は、罵倒ではなく、ただ「売る品が、誰にも買われなくなる」という因果で訪れました。次回、最終話。塩の道が開いたあとの、静かなその先を描いて、この章を締めます。




