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第38話 卓を、組み直す

 峠の上は、風が、塩の匂いを含んでいた。


 三日かけて、レオノーラとニコは、二つの峠を越えた。三つ目の峠の、風の当たらぬ窪みに、古い石の小屋があった。そこに、峠の古老は、住んでいた。名を、シメオンといった。ドレンよりも、ラゴサよりも、連合評議よりも古い、この山の、生き字引だった。


「フリーセンの、卓を整える娘か」


 古老は、皺の底から、レオノーラを見た。「何を、聞きに来た」


「評議が卓を開かぬとき、二つの家は、どうやって、揉め事を収めていたのか。――評議が、まだ、なかった頃に」


 古老は、しばらく、火を見ていた。それから、しわがれた声で、ゆっくりと語り出した。


 *


「評議なんぞ、できたのは、つい五十年前のことだ」


 シメオンは言った。「それより前、この山に、卓を開く権など、誰も、持っておらなんだ。持つ必要が、なかった。二つの家が揉めたら、両家は、峠の上へ登ってきた。どちらの土地でもない、峠の上へな。そこで、古老が立ち会い、二つの家が、同じ石の上に手を置いて、誓う。――それを、『峠の立会たちあい』と呼んだ」


「峠の、立会」


「立会で交わした誓いは、山の、どの家も、破れなんだ。評議より、古いからだ。評議は、この立会を、いくつも束ねて、後から作られた。……子が、親を、廃することはできぬ。評議は、立会を、一度も、廃しておらん。廃せば、評議そのものの、土台が崩れるからな」


 レオノーラの、指が、わずかに動いた。


(評議の招集がなくても……峠の立会なら、卓は、開ける。評議より古く、評議が廃せない掟。橋番の握る、新しい鍵の、下に――錆びた、けれど、決して開かなくなってはいない、古い鍵が、あった)


「古老様。もし、ドレンとラゴサが、峠の立会を望めば」


「わしが立ち会えば、それは、成る」シメオンは、あっさりと言った。「連合の、どの評議も、それを、覆せぬ。……だが、娘。立会には、掟がある。峠の上では、二つの家に、上も下も、ない。名の順も、席の高さも、ない。それを守れぬ者は、石に、手を置けぬ」


「上も、下も、ない」


「そうだ。峠は、誰のものでもない。だから、そこでだけ、二つの家は、対等になれる」


 レオノーラは、深く、頭を下げた。胸に、右手を左肩に当てた。山の礼で。


(探していた鍵は、これだった。……卓を、峠の上に、組み直す)


 *


 その夜、石の小屋の火のそばで、レオノーラは、新しい卓を、一枚の紙の上に、組み立てていった。ニコが、灯りを寄せ、それを覗き込んでいた。


「まず、名を」


 彼女は、書いた。協定の名は、『ドレン・ラゴサ』でも、『ラゴサ・ドレン』でもない。


 ――『セルカ峠協定』。


「二つの家の間にある、峠の名を、協定の名にします。どちらの名も、先に来ない。どちらの名も、後に来ない。二つの家は、峠を挟んで、隣り合う。峠は、誰のものでもないから、どちらの面子も、傷つかない」


「……名前の、けんかが、消えるっすね」


「消えます。競わせるから、順序が要る。競わせなければ、順序は、要らない」


 次に、彼女は、卓の図を描いた。丸い石。その上に、二つの家が、同じ高さで手を置く。上座は、ない。立会人の古老は、卓の中心ではなく、外に立つ。裁く者ではなく、ただ、見届ける者として。


「署名は、同時にします。筆を、二本、同じ卓に置き、古老様が合図を出したら、二人が、同じ瞬間に、書く。先も、後も、ない。――『どちらが先に折れたか』を、誰にも言わせません」


「そこまで、するんすか」


「名前の順で一年止まった人たちです。『先に署名した』というだけで、また、一年、揉めます。ならば、順序そのものを、時間からも、消します」


(呼称を、揃えた。名を、峠に移した。席を、丸くした。署名を、同時にした。……もう、この卓の、どこにも、上下は、ない。上下がなければ、争う一行は、生まれない)


 *


 紙が、組み上がったとき、ニコが、ぽつりと言った。


「レオノーラさん。これ……ロタールの、招集、要らないっすね」


「ええ。峠の立会は、評議より古い。橋番の手を、通しません」


「あいつ、詰んだんじゃ」


「いいえ」


 レオノーラは、火の向こう、闇に沈んだ峠道を見た。「四十年、均衡を売ってきた人です。手札が一枚外されたくらいで、退く人では、ありません。……必ず、峠まで、登ってきます」


 そのとき、シメオンが、火の向こうから、しわがれた声で言った。


「もう、登ってきておるよ」


 レオノーラが、顔を上げた。


「三日前、麓から、早馬が上った。ラゴサとドレンが、峠の立会を望んでおる――その噂は、もう、風に乗った。ロタール・カシスが、それを、聞かぬはずが、ない。……あの男は、今ごろ、峠の下で、最後の手を、考えておる」


「最後の、手」


「立会は、覆せぬ。だが、立会に、二つの家を、登らせぬことは、できる。……片方の足を、麓で、止めればいい」


 レオノーラは、紙を、そっと畳んだ。組み上げた卓は、もう、崩れない。あとは、その卓に、二つの家を、無事に、着かせるだけだった。


(卓は、組んだ。……あとは、二人を、この峠まで、登らせる。橋番の、最後の囁きを、越えて)


 火が、ぱちりと、爆ぜた。峠の風が、塩の匂いを、また一つ、運んできた。

 お読みくださり、ありがとうございます。


 卓の組み直し――呼称を揃え(33話)、名を峠に移し、席を丸くし、署名を同時にする。「上下」を、卓のどこからも、時間からさえも消してしまう。争う一行は、上下があるから生まれる。ならば、上下そのものを無くせばいい。レオノーラの得意技が、いちばん静かな形で決まりました。


 そして、橋番ロタールの握っていた「招集」の鍵は、それより古い「峠の立会」の前に、要らなくなりました。けれど、均衡を売る男は、手札一枚では退きません。彼の最後の手は――片方の足を、麓で止めること。


 次回、いよいよ本番。二つの家を、同じ峠の、同じ高さに。ブックマーク・評価が、大きな励みです。

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