第37話 雇い主の、期待
峠へ発つ支度は、鞄一つで済んだ。
書類は、頭の中にある。着替えと、筆と、いくらかの写しだけ。レオノーラが荷を検めていると、ヴェルナー・ロートが、帳場に上がってきた。老商人は、その小さな鞄を見て、いつものように、少し笑った。
「相変わらず、軽いな」
「重い荷は、道で失くしますから」
「峠を三つ越えて、山の古老に会いに行く、か。……ずいぶんと、遠い鍵を、探しに行くもんだ」
ヴェルナーは、椅子に掛け、しばらく、卓の上の草案を眺めていた。それから、切り出した。声の調子が、ほんの少しだけ、商人のものに変わっていた。
「アーレンス。一つ、確かめておきたいことがある」
「なんでしょう」
「その塩の道が、一本になったら。――山の塩は、どこを通って、平地へ流れる」
レオノーラは、荷を検める手を、止めなかった。
「ラゴサの関から、麓へ。麓から、いくつかの街道へ、散っていくでしょうね」
「その、いくつかの街道の、どれか一つは」ヴェルナーは、指を一本立てた。「フリーセンを、通る」
*
(来たわね。……雇い主の、いちばん言いたいこと)
レオノーラは、荷の口を結び、老商人に向き直った。
「ヴェルナーさん。おっしゃりたいことは、分かります」
「話が早い」
「塩の道が一本になれば、その中継に、フリーセンはちょうどいい。ロート商会の帳場が、少し潤う。――だから、卓を組むとき、塩の流れが、フリーセンを通るように、少し、手心を。……そういうお話ですね」
「そこまで、あからさまには言わんさ」ヴェルナーは、悪びれずに笑った。「だが、まあ、そういうことだ。お前さんは、うちが雇っている。うちの金で、峠を越える。だったら、纏めるついでに、うちの帳場に、いくらか色を付けてくれても、罰は当たるまい。――どこの商会主でも、そう考える」
「ええ。どこの商会主でも、そう考えます」
レオノーラは、静かに頷いた。それから、ごく穏やかに、けれど、はっきりと、線を引いた。
「けれど、それをした瞬間に、この卓は、纏まらなくなります」
ヴェルナーの、笑みが止まった。
「私が、フリーセンに塩を通す一行を、そっと忍ばせたとします。ドレンは、それに気づくわ。ラゴサも。そして、こう思う。――ああ、この交渉人は、やはり、雇い主の犬だったのだ、と。フリーセンの、金で動く。ラゴサの女の代わりに、今度は、ロート商会のために。……そう思われた瞬間、二つの家は、二度と、私の出す紙を、信じません」
「……」
「私が、誰のものでもないから、二つの家は、私の卓に着ける。ロート商会のものになった瞬間、私の卓は、ただの、フリーセンの出店になります。誰も、出店の言うことなんて、聞かないわ」
*
室に、短い沈黙が落ちた。
ヴェルナーは、腕を組んで、天井を見上げた。それから、ふう、と、長い息を吐いた。
「……お前さんの母上も、そうだった」
「母が」
「昔な。うちの荷が、ある港で止まったことがある。役人が、書類の不備だとかで、動かさなかった。俺は、若かったから、袖の下でどうにかしようとした。金で、動かそうとした。……そのとき、お前さんの母上が、言ったんだ」
ヴェルナーは、遠い目をした。
「『ロートさん。金で動いた一行は、次は、もっと大きな金で、逆に動くわ』とな。あの人は、金を使わなかった。ただ、正しい書式に、一行を、戻しただけだ。それで、荷は、流れた。――値踏みも、されなかった。俺は、その恩を、まだ、返しきれていない」
「……」
「その娘が、今、俺の前で、同じことを言っている。金で色を付けろと言った俺に、それをした瞬間に卓は死ぬ、と。――はっ。血は、争えんな」
レオノーラは、何も言わなかった。母の顔は、もう、うまく思い出せない。けれど、母の引いた一本の線だけは、こうして、娘の卓の上に、まだ生きていた。
「分かった」ヴェルナーは、手を、ひらりと振った。「色は、要らん。塩がフリーセンを通るかどうかは、道が一本になったあとの、商人どうしの話だ。俺は、俺の腕で、その塩を取りに行く。――お前さんは、ただ、道を、一本にしてこい」
「よろしいのですか。潤いが、約束されないままで」
「約束された潤いなんぞ、商人の、いちばん嫌いなものさ」老商人は、にやりとした。「隙のある道からしか、儲けは生まれん。誰にでも開いた道の、いちばん良い隙を、いちばん早く見つける。それが、俺の仕事だ。――お前さんが誰のものでもない道を作れば、俺は、誰よりも早く、そこを通る。それで、十分だ」
(そう。……それで、いい。誰のものでもない道だから、いちばん腕のいい者が、いちばん早く通れる。手心より、そのほうが、ずっと、この人らしい)
*
「行ってきます」
レオノーラは、鞄を手に取った。
「ニコを、連れていけ」ヴェルナーは言った。「峠道は、女一人には、剣呑だ。あいつは、元は伝令だ。山道の足には、慣れている」
「では、お借りします。――帳場を、少しの間、空けます」
「空いた卓は、埋まるさ。揉め事のある限り、卓は尽きん。お前さんが、そう言ったんだ」
レオノーラは、わずかに笑った。窓の外、遠くの山影が、朝の光に、少しだけ、近く見えた。誰のものでもない道を、一本、架けに行く。その支度は、鞄一つで、足りていた。
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第二部の新しい緊張――「雇い主の期待」と「中立」の板挟み。ヴェルナーは悪人ではありません。商人として当然のことを言っただけ。けれどレオノーラは、はっきり線を引きました。中立を崩した瞬間、この卓は死ぬ、と。
そして、その線は、彼女の母がかつて引いた線と、同じものでした。金で動いた一行は、もっと大きな金で逆に動く――第一部で少しだけ触れた「母の流儀」が、ここで娘に受け継がれています。
次回、いよいよ峠を越え、「古い鍵」を握る峠の古老のもとへ。ブックマーク・評価、心の支えです。次回もお付き合いください。




