第36話 遠くの、買い手
イレーネが持ってきたのは、二つの報せだった。
一つは、古い掟の在り処。もう一つは、塩の値の、奇妙な流れ。彼女は、後者から話し始めた。それが、彼女の勘に、いちばん引っかかっていたからだった。
「お嬢さん。ドレンの岩塩、この一年、妙な流れ方をしてるんだ」
彼女は、卓に、商人網の帳面を広げた。「麓のラゴサを通さずに、山から直に、買い付けてる者がいる。高地まで隊商を上げて、関を通さず、安く、根こそぎ。……ラゴサの関を通せば、税がかかる。だが、山で直に買えば、それがない。分断してる今のほうが、その買い手には、都合がいいのさ」
「その買い手は」
イレーネは、指で帳面の一行を叩いた。
「ヴェルダンの、塩問屋だ。……だがね、お嬢さん。その問屋の後ろにいる名を、辿っていくと」
「ファルク」
「ご名答」イレーネは、肩をすくめた。「宰相じきじき、とまでは言わないよ。だが、ヴェルダンの塩の差配は、あの男の掌の内さ。――ドレンとラゴサが仲違いしてるほうが、ヴェルダンは、塩を安く買える。橋番のロタールと、狙いが、ぴたり重なってる」
*
ニコが、机から身を乗り出した。
「じゃあ、黒幕、ファルクじゃないっすか。ロタールに裏で糸引いて、わざと塩の道を止めさせて、安く塩を――」
「ニコ」
レオノーラは、静かに遮った。「糸を、引いているとは限りません。安く買える隙があったから、買った。ただ、それだけかもしれない。商人は、開いている扉から入るだけです。扉を開けたのが誰かは、また、別の話です」
「でも、結果的に、ファルクが得してるっすよ」
「ええ。得をしています。――けれど、それは、罪ではありません」
レオノーラは、帳面の一行を、静かに見ていた。
「安く買うことは、悪ではありません。安く買える隙を、放っておくことも。ファルク様は、扉が開いている間、そこから入っただけ。私が、その扉を閉めれば、彼は、入れなくなる。それだけのことです。――彼を、責める必要は、ありません。扉を、閉めればいい」
(分断で得をしている者を、憎んでも、道は一本になりません。道が一本になれば、その得は、自然に消える。……敵を打つのではなく、隙を、消す)
「ヴェルダンを、敵に回すんじゃ、ないんすね」
「回しません。私は、誰も、敵に回しません。ただ、塩の道を、一本にするだけです。道が一本になったとき、ドレンの塩は、正しい値で売れる。安く買い叩かれていた家が、正しい値を得る。それは、ドレンにとっての、利です。――結果として、遠くの買い手が損をするとしても、それは、私の狙いでは、ありません」
*
その日の夕、一通の書簡が届いた。
封蝋の紋を見て、ニコが息を呑んだ。装飾のない、痩せた紋。ヴェルダンの、宰相の手だった。あの更新交渉の終わり、あの夜に届いた一葉と、同じ手。
レオノーラは、封を検めた。文面は、短かった。相変わらず、飾りが、一つもなかった。
『貴公が、サヴァルの塩の卓に着いたと聞いた。
あの山の塩は、久しく、安かった。安いには、安いだけの、事情がある。事情を、崩すのは、貴公の勝手だ。私は、止めぬ。止める筋合いも、ない。
ただ、覚えておくといい。塩の値が動けば、動いた先で、また、別の卓が立つ。貴公が一つ道を繋ぐたび、私の卓には、新しい議題が一つ、増える。――悪くない。退屈しのぎには、ちょうどいい。
次に貴公の正面に座るのが、私になるのか、ならぬのか。それは、まだ、量らぬ。
ファルク』
レオノーラは、それを、二度読んだ。
(止めぬ、と書いてある。……止めぬ、と、わざわざ書く。それは、止められる立場にいる者の、言葉ね)
「レオノーラさん。……これ、脅しっすか」
「いいえ」
彼女は、書簡を、卓の端に置いた。「脅しではありません。挨拶です。――『見ている』と、それだけの。あの方は、この卓を、止めに来たのではありません。この卓が、次にどんな卓を呼ぶか、それを、見に来ただけです」
「暢気っすね」
「暢気ではありません。長い目を、持っているだけです。一つの塩の値より、その先の、いくつもの卓を見ている。……厄介な人です。けれど、今日の敵では、ありません」
彼女は、書簡を、返さなかった。急いで返す文には、たいてい、足元を見られる隙がある。ファルクの一葉は、しばらく、卓の端で、静かに待たせておくことにした。
*
「で、お嬢さん。もう一つの報せは、聞かなくていいのかい」
イレーネが、にやりとして言った。「古い掟の、在り処さ」
「聞かせてください」
「サヴァルの南に、『峠の古老』と呼ばれる爺さんがいる。ドレンよりも、ラゴサよりも、評議よりも古い。山が、まだ部族のままだった頃の掟を、そらんじてる生き字引だ。……評議ができる前、二つの家が揉め事をどう収めていたか。その爺さんなら、知ってるかもしれないよ」
「峠の、古老」
「会いに行くなら、峠を、自分の足で越えなきゃならない。爺さんは、麓には、下りてこないからね」
レオノーラは、窓の外の、遠い山影を見た。橋番の握る、新しい鍵。その手前に、橋番よりも古い、錆びた鍵が、峠の上で、誰かに握られて眠っている。
「行きます。――卓を開かせる鍵が、そこにあるなら」
(新しい掟が閉ざすなら、古い掟に、問う。……卓は、開けるためにある。板のままには、しません)
お読みくださり、ありがとうございます。
塩の道が止まっているあいだ、こっそり得をしていたのは、橋番ロタールだけではありませんでした。分断ゆえに山の塩を安く買い叩いていた、遠くの買い手――ヴェルダンのファルク。そして、久々に届いた宰相の一葉。
ここでレオノーラは、ファルクを「黒幕」として憎むことをしません。彼女の答えは静かです。「敵を打つのではなく、隙を消す」。道が一本になれば、安く買い叩く隙は、ひとりでに消える。憎まずに、ただ扉を閉める――それが彼女の中立でした。
次回、卓を開かせる「古い鍵」を求めて、レオノーラは峠を越えます。ブックマーク・評価、いつも励みにしております。




