第35話 均衡を、売る男
その男は、笑顔で階段を上がってきた。
ドレンの名代のような、張り詰めた冷たさはなかった。むしろ、旧知の友を訪ねるような、柔らかな物腰だった。歳は五十がらみ。仕立ては上等だが、けばけばしくない。連合評議長、ロタール・カシス。橋番が、自ら川を渡って、フリーセンまで下りてきたのだった。
「これは、名高いアーレンス殿。お会いできて、光栄です」
彼は、勧められる前に、自然に椅子へ掛けた。麦湯にも、灰緑にも、こだわらなかった。出されたものを、当たり前のように、旨そうに飲んだ。
「わざわざ、山を下りてくださったのですか」
「なに、老いぼれの、ちょっとした散歩ですよ」ロタールは、目を細めた。「サヴァルの南で、少々、名の知れたお方が、卓を覗いていると聞きましてね。ご挨拶に、と。――連合の秩序を預かる者として、当然の礼儀です」
(秩序を預かる。……その言葉を、まず、置きに来た)
「恐れ入ります。ですが、わたくしは、覗いてはおりません。頼まれて、整えているだけでございます」
「整える」ロタールは、その言葉を、口の中で転がした。「結構な言葉だ。ですが、アーレンス殿。整いすぎた道は、ときに、危うい」
*
「ドレンとラゴサが、直に結ばれる。塩の道が、一本になる。――結構なことです。誰もが、そう言う」
ロタールは、椀を置き、両手を組んだ。
「ですがね。連合というのは、二つの家が仲良くなることで、成り立っているのではない。むしろ、逆です。どの家も、他のどの家より、突出しない。誰も、誰の上に立たない。その、危うい均衡の上に、サヴァルは、何百年も立ってきた」
「二つの家が結ばれれば、その均衡が崩れる、と」
「南で、大きな塊が一つできれば、北はどうなります。西は。連合の他の家々は、その塊を、放っておきますか。――ドレンとラゴサを結ぶのは、南に、一つの拳を作ることだ。拳ができれば、殴り合いが始まる。私は、それを、四十年、防いできた」
もっともらしい言葉だった。もっともらしく、そして、どこか、温かくすらあった。連合の平和を憂える、老いた賢者の声。
(けれど)
レオノーラは、その声の、少し下を聞いていた。
(この人は、殴り合いを防いだのではない。殴り合いの、寸前を、四十年、売ってきた。危ういから、仲裁が要る。仲裁が要るから、この人の椅子は、なくならない。均衡を守っているのではなく――均衡を、売っている)
「ロタール様」
彼女は、静かに問うた。「一つ、伺ってもよろしいでしょうか。ドレンとラゴサが結ばれたのち、南に拳ができぬよう見張るのも、また、評議のお役目ではございませんか。結ばせぬことだけが、均衡を保つ手立てとは、限らぬかと存じますが」
ロタールの笑みが、ほんのわずか、動いた。ごく小さな、けれど、確かな動きだった。
「……アーレンス殿は、鋭い」
彼は、笑みを崩さなかった。崩さないことで、崩れたものを、隠した。
*
「まあ、理屈は、いろいろありましょう」
ロタールは、そう言って、話を仕舞いにかかった。「ですが、一つだけ、動かせぬことがある。アーレンス殿、あなたが、どれほど見事な案をお作りになろうと――ドレンとラゴサを、同じ卓に着かせられるのは、連合評議だけです」
「評議だけ」
「二つの家が、私的に紙を交わすのは、勝手です。ですが、それは、連合の中では、何の力も持たない。関を一つにし、税を分け、盗賊に備える。そのすべてを、連合が保証するには、評議の招集と、評議の記録が要る。――そして、評議を招集するのは」
彼は、自らの胸に、そっと手を当てた。
「この、老いぼれの、務めでしてね」
室に、静かな沈黙が落ちた。ニコが、書記の机で、拳を握るのが、気配で分かった。
「一年、招集なさらなかったのは」レオノーラは、声を平らに保った。「その務めを、果たされなかったから、でございますか」
「機が、熟しておらなかった。それだけのことです」ロタールは、立ち上がった。「機というものは、こちらの都合で、熟すものでしてね。……さて。老いぼれの散歩も、そろそろ仕舞いです。よい卓を、アーレンス殿。ただし――卓は、開かねば、ただの板だ。お忘れなきよう」
彼は、来たときと同じ、柔らかな笑みで、階段を下りていった。足音は、軽かった。何一つ、失っていない者の、足音だった。
*
男が去ったあと、ニコが、堪えかねたように言った。
「レオノーラさん、あいつ、卓を人質に取ったっす。案がどれだけ良くても、招集しなきゃ意味ないって。……詰みじゃないっすか」
「詰み、ではありません」
レオノーラは、卓に戻り、細い指を組んだ。
「あの人は、大事なことを、一つ、教えていってくれました。――『評議の招集がなければ、私的な紙は、連合の中で力を持たない』。裏を返せば、力を持たせる道が、評議の招集の、ほかにも、あるということです」
「ほかにも……あるんすか」
「四十年、招集を握ってきた人が、わざわざ『これだけは動かせぬ』と念を押していった。本当に動かせぬものを、人は、わざわざ念押ししません。念を押したのは――そこに、抜け道があるからです」
(人質を取る者は、人質しか、手札がない。手札が一枚なら、それを外す道は、必ず、どこかにある)
彼女は、卓の抽斗から、古い写しの束を引き出した。連合の、古い取り決め。評議が定まる前の、まだ山が、部族のままだった頃の、約定の写し。
「ニコ。イレーネさんを、呼んでください。サヴァルの、いちばん古い掟を知る人を、探します」
「古い掟」
「新しい鍵が回らないなら、古い鍵を、探すまでです」
灯りの下で、レオノーラは、色褪せた約定を、一枚ずつ、めくり始めた。橋番が握っていないもの。橋番より、古いもの。それが、どこかに、眠っているはずだった。
お読みくださり、ありがとうございます。
今回の相手、ロタール・カシス。声を荒げず、むしろ温かく、連合の平和を憂えてみせる――けれど、その正体は「均衡を売る男」でした。殴り合いを防ぐのではなく、殴り合いの寸前を四十年売り続け、仲裁の椅子を手放さない。分断が続くほど、彼は得をします。
彼は「卓を開けるのは評議だけ」と人質を取りました。けれど、動かせぬものをわざわざ念押しする者は、たいてい、抜け道の存在を知っています。次回、レオノーラは「古い鍵」を探しにかかります。
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