第34話 どちらの、味方でもなく
十日後、山から、別の使者が下りてきた。
ヨナとは、まるで違う男だった。仕立ての良い外套に、銀の留め具。胸を張り、麓の市を通り抜けるときも、埃を避けるように歩いたという。ドレンの、イグナーツ・モーレンの名代だった。
男は、帳場に通されても、椅子を勧められるまで座らなかった。座ってからも、麦湯には手をつけなかった。
「アーレンス殿。単刀直入に申し上げる」
彼は、冷ややかに切り出した。「イグナーツ様は、此度の仲介を、お断りになる」
「理由を、伺えますか」
「あなたは、ラゴサのサビナ・コルトに雇われた。麓の女の、金で動く交渉人だ。――そのような者が持ち込む案を、ドレンが呑むはずがない。塩の道は、ラゴサの都合で引くものではない」
ニコが、書記の机で、むっと顔を上げかけた。レオノーラは、目でそれを制した。
(来た。……この疑いは、来ると思っていた)
「もう一つ、伺います」
レオノーラは、声を高くしなかった。「その話は、どなたから、お聞きになりましたか。私がラゴサに雇われた、という話です」
名代は、一瞬、言い淀んだ。
「……連合の評議から、報せがあった。ラゴサが、フリーセンの交渉人を金で雇い、ドレンを出し抜こうとしている、と」
「評議から」
「評議長の、ロタール・カシス様の、じきじきの報せだ」
レオノーラは、それきり、何も言わなかった。卓の上に、また一枚、透けて見える紙が増えた。橋の名は、川の両岸に、別々の話を囁いていた。
*
「一つ、お目にかけたいものがあります」
彼女は、卓の抽斗から、一通の写しを取り出した。ヨナに託した、あの三枚目の紙の写しだった。
「これが、私がラゴサへお送りした案の、すべてです。――お読みください」
名代は、渋々、それを手に取った。読むうちに、その眉が、わずかに動いた。
「……『セルカの塩を扱う、二つの家』」
「ドレンの邑でも、ラゴサの市でもなく。どちらも、同じ言葉で、同じ格で呼びます。この案に、ラゴサを上に置く一行が、どこかにありますか」
名代は、二度、読み返した。ない、とは言わなかった。言えなかった。そこには、上下が、一文字もなかった。
「私が、ラゴサに雇われた者なら」レオノーラは、静かに続けた。「この案は、ラゴサの名を先に書いていたはずです。金を出した側の顔を、立てるのが、雇われ交渉人というものですから。――ですが、この案には、順序が、ありません。私は、順序を、消しました」
「なぜ、消した」
「順序を残せば、どちらかの味方になります。私は、どちらの味方にも、なりません」
*
名代は、しばらく、その紙を持ったまま、動かなかった。
レオノーラは、その間に、新しい紙を一枚、卓に置いた。そこに、簡潔な条件を書きつけていく。
「ドレンの名代殿。私の仲介を、お受けになるなら、一つ、条件があります」
「条件」
「私は、ラゴサからは、一銭も受け取りません。ドレンからも、受け取りません」
名代が、はじめて、まともに彼女の顔を見た。
「……では、誰の金で動く」
「纏まったとき、二つの家が、同じ額を、半分ずつ。纏まらねば、一銭も。――どちらか一方の金で動けば、私はその一方の交渉人になります。両方から等しくいただくなら、私は、どちらのものでもない。中立とは、そういう形をしています」
「両方から、等しく」
「はい。そして、この同じ紙を、今、ラゴサにも送ります。あなたにお見せしたものと、一字一句、同じものを。片方にだけ甘い顔をする交渉人は、いずれ、両方に見捨てられますから」
名代は、手の中の紙に、もう一度目を落とした。それから、ずいぶん長い沈黙のあとで、ようやく、麦湯の椀に手を伸ばした。一口、飲んだ。
「……イグナーツ様に、お伝えする」彼は、低く言った。「あなたが、麓の女の犬ではない、ということは。……少なくとも、この紙は、そう言っている」
「犬でも、鷹でもありません。私は、卓を整える者です。それ以上でも、以下でもなく」
名代は、椀を置き、はじめて、わずかに頭を下げた。銀の留め具が、灯りに小さく光った。
*
名代が去ったあと、ニコが、こらえきれずに口を開いた。
「レオノーラさん。あの評議長、両方に、逆のこと吹き込んでるんすよ。ラゴサには『ドレンが折れない』、ドレンには『ラゴサが金で出し抜く』って。……わざと、喧嘩させてるっす」
「ええ」
「なんで、そんなこと」
レオノーラは、窓辺に立った。運河の向こう、遥か遠くに、サヴァルの山影が、薄く霞んでいる。
「二つの家が、直に手を繋ぐと、困る人がいるからです。橋が要らなくなると、橋番の椅子が、なくなる。――一年、卓を開かせなかったのは、意地ではありません。商売です。誰かの、静かな商売です」
(両岸に、別々の話を囁く。その囁きが、川を、渡らせない。……渡らせないことで、食べている人が、いる)
「だから、私は、両岸に、同じ紙を送ります。一字一句、同じものを。囁きを消すには、同じ言葉を、両方に、平らに届けるしかありません」
ニコが、感心したように、そして少し悔しそうに、唸った。
「……敵、じわじわ見えてきたっすね」
「顔のある人が、また一人」
レオノーラは、卓に戻り、ラゴサ宛ての写しを、丁寧に封じた。同じ言葉が、今度は麓へと下りていく。橋番の囁きより、少しだけ、速く。
お読みくださり、ありがとうございます。
ラゴサに雇われた交渉人――そう見えれば、ドレンは決して首を縦に振りません。レオノーラの中立は、心構えではなく「形」です。両方から等しくもらう、同じ紙を両方に送る、順序を消す。中立とは、そういう具体的な設計の積み重ねでした。
そして、両岸に逆の囁きを送り、二つの家を喧嘩させ続けていた者の輪郭が、はっきりしてきました。橋が要らなくなると困る、橋番。次回、その人物が、いよいよ前面に出てきます。
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