第33話 上座では、ありません
ヨナが、峠へ発つ前に、もう一度帳場を訪ねてきた。
礼を述べに来たのだという。引き受けてもらえるかどうか、返事だけでも持ち帰りたい、と。レオノーラは、彼を椅子に掛けさせ、麦湯を出させた。それから、卓の上に、二枚の紙を並べた。
一枚には「ドレン」。もう一枚には「ラゴサ」。
「ヨナさん。一つ、伺います」
彼女は、静かに切り出した。「ドレンを、言葉で呼ぶとき、皆さんは何と呼びますか」
ヨナは、当たり前のことを訊かれた顔をした。
「ドレンの邑、です。塩の邑。……古い部族の、邑ですから」
「ラゴサは」
「ラゴサの市、ですな。麓の、市」
「では、この二つを、順に並べてみてください。ドレンの邑と、ラゴサの市。――どちらが、上ですか」
ヨナは、口を開きかけて、止まった。
しばらく、二枚の紙を見比べていた。それから、困ったように眉を寄せた。
「……それは、その、比べにくいですな。邑と市では、そもそも、物差しが」
「そうです」
レオノーラは、ごく静かに言った。「邑と市は、比べる物差しが違います。古さで測れば、邑が上。大きさで測れば、市が上。豊かさで測るか、人の数で測るか、山を守った年月で測るか。――物差しを変えるたびに、上下が入れ替わる。だから、どちらが先か、という問いには、永遠に答えが出ません」
*
ヨナの目が、少しずつ、見開かれていった。
「答えの出ない問いを、一年、問い続けていたのです。皆さんは、意地を張っていたのでは、ありません。答えの出ない問いに、律儀に答えようとして、動けなくなっていた。真面目な人たちほど、そうなります」
「では……では、どうすれば」
「問いを、変えます」
レオノーラは、二枚の紙を、そっと重ねなかった。並べたまま、その下に、三枚目を敷いた。三枚目には、こう書いてあった。
――『セルカの塩を扱う、二つの家』。
「ドレンの邑でも、ラゴサの市でもなく。どちらも、『セルカの塩を扱う家』と呼びます。同じ言葉で。同じ格で。――そうすれば、順序を決める必要が、なくなります。二つの家は、上下ではなく、隣り合わせに並ぶ」
「隣り、合わせ」
「上座か下座か、ではありません。上座も下座も、ない卓です。丸い卓に、上座がないように」
ヨナは、その三枚目の紙を、食い入るように見ていた。
やがて、彼は、深く息を吐いた。肩の力が、ゆっくりと抜けていくのが、傍から見ても分かった。一年、彼の肩に載っていた何かが、その一枚で、静かに下ろされたようだった。
「……アーレンス殿。私は、山を三つ越えて、ここへ来ました」
彼は、かすれた声で言った。「峠を越えるたびに、思っておりました。フリーセンの交渉人とやらが、いったい何を言うのかと。名前の順を、右に付けるか左に付けるか、そんな話だと。……違った。あなたは、名前を、並べ替えなかった。名前の、呼び方を、変えた」
「呼び方が、格を決めます。格が揃えば、順序は、要らなくなります」
ヨナは、椀を置いて、深く頭を下げた。胸に、右手を左肩に当てた、山の礼で。
「話の、通じる人だ。――ようやく、話の通じる人が、来た」
(通じた。……この一枚は、通じた)
レオノーラは、内心でだけ、静かにそう確かめた。
*
だが、ヨナが顔を上げたとき、その表情には、まだ翳りが残っていた。
「ですが、アーレンス殿。……一つ、申し上げねばなりません」
「どうぞ」
「この案を、卓に載せるには、連合の評議を、開いていただかねばなりません。ドレンとラゴサを、同じ卓に着かせる。それを差配できるのは、評議長の、ロタール・カシス様だけです」
「その評議長が、一年、卓を開かせなかった」
ヨナは、答えなかった。答えは、彼の沈黙の中にあった。
レオノーラは、伏せておいた昨夜の紙を、思い出していた。二つの岸に架かった、橋のような、三つ目の名。
(呼び方は、変えられた。答えの出ない問いは、解けた。……けれど、その解を、卓に載せる鍵は、別の人が握っている)
「ヨナさん」
彼女は、静かに言った。「サビナ様に、お伝えください。順序の問いは、もう、解けています。あとは、卓を開かせるだけ。――卓さえ開けば、この道は、一本になります」
「卓を、開かせる」
「ええ。そこが、本当の行き止まりです。私は、そこへ、鍵を探しに参ります」
ヨナは、もう一度、山の礼をした。それから、三枚目の紙を、大切そうに懐へ収めて、峠へと発っていった。
窓の外を、隊商の鈴が、遠ざかっていく。塩を運んできた道を、今度は、一枚の紙が、山へと登っていった。
お読みくださり、ありがとうございます。
「上座か下座か」で一年止まっていた卓。その問いが、そもそも答えの出ない問いだった――邑と市は、物差しが違うから比べられない。レオノーラの一手は、名前を並べ替えることではなく、二つを「同じ言葉」で呼べるようにすることでした。
順序の問いは解けました。けれど、その解を卓に載せるには、卓を開かせねばならない。そして卓を開かせる鍵は、一年それを閉じてきた人の手にあります。次回、レオノーラは「本当の行き止まり」へ向かいます。
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