第32話 一年、動かない卓
翌朝、卓の上には、写しの束が積まれていた。
ヨナが宿から運ばせた、この一年ぶんの記録だった。ドレンとラゴサの往復書簡。連合評議に提出された協定の草案。そして、評議長ロタール・カシスが仲裁の名で回した、幾通もの調停案。レオノーラは、それを一枚ずつ、灯りの下で読んでいった。
ニコが、隣の机で、同じ束の写しと格闘していた。
「レオノーラさん、おれ、何回読んでも分かんないっす」
「どこが」
「条文、ほとんど揉めてないんすよ。税は六と四で分ける、二つあった関所は麓のに束ねて一つにする、盗賊が出たら両方から人を出す。……全部、去年の春には決まってるんす。なのに、ここから一年、一文字も進んでない。理由が、名前の順だけって」
ニコは、頭を抱えた。「王国だったら、殿下が『どっちでもいいから早く出せ』って一喝して終わりっすよ」
「その一喝が、ここでは効きません」
レオノーラは、写しから目を上げずに言った。「サヴァルには、王がいません。連合というのは、誰も誰の上に立たない、という約束で出来ています。だから、名の順序は、ただの順序ではないのです。それは、この山で唯一許された、序列の名残なのです」
「序列の、名残」
「王のいない国で、それでも誰かが半歩前に出たいとき、人は名前の順に、その半歩を託します。――だから、譲れない」
ニコは、しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……たかが名前が、いちばん譲れないやつなんすね」
「ええ。たかが名前です。たかが、一行です」
*
昼、イレーネが商人網の報せを持って上がってきた。椅子に腰を落とすなり、指を三本立てる。
「三人、いるよ。この卓の当事者」
「ドレンと、ラゴサと」
「連合評議長のロタール・カシス。この三人さ」レオノーラの言葉を継いで、イレーネは言った。「ドレンのイグナーツ・モーレンってのが、古い塩の邑の長でね。山じゃ知らぬ者のない家柄だ。塩を、何百年も抱いてきた。だが――抱いてるだけじゃ、市は大きくならない」
「ラゴサが、それを売った」
「サビナ・コルトさ。隊商あがりの女でね。裸一貫から関を築いて、山の塩を平地に流して、麓を市にした。あの女がいなけりゃ、ドレンの塩は、今も蔵で固まってただけさ」
(片方は、塩を持っている。片方は、塩を運ぶ道を持っている。……どちらも、片方だけでは、塩を金に換えられない)
「つまり」レオノーラは、灯りに一枚の草案をかざした。「この二人は、憎み合ってはいない」
「憎んじゃいないねえ。むしろ――」イレーネは、にやりとした。「互いに、相手がいないと商売にならないと、腹の底では分かってる。分かってて、名前の順で一年、意地を張ってる。傍から見りゃ、いい年をした大人二人の、面子の張り合いさ。はっ、いい見物だよ」
「見物には、しません」
「分かってるよ、お嬢さん。あんたは、笑わないからね」
*
夕刻、レオノーラは一人、卓に向かっていた。
一年ぶんの調停案を、時系列に並べ直す。ロタール・カシスの回した案は、どれも巧妙だった。「くじ引きで決めては」「一年ごとに順を入れ替えては」「両名を同じ大きさで併記しては」。もっともらしい。もっともらしいのに、なぜか、どれも通っていない。
(おかしい)
彼女は、指を組んだ。
(併記案は、通っていいはずの案。両者の面子を、同じ高さで立てている。ドレンもラゴサも、これなら呑めた。……なのに、通っていない。誰かが、通させなかった)
草案の余白に、細い書き込みがあった。ロタールの手だという。『併記は連合の秩序を乱す。順は評議が定めるが筋である』――そう書いてある。
(順は、評議が定める。……評議長が、定める)
レオノーラは、その一行を、長く見つめた。
揉めているのは、ドレンとラゴサの、どちらが上か。そう見えていた。だが、記録を並べ替えて透けて見えてきたのは、別の絵だった。二人が名の順で意地を張っている限り、その順を「裁く」者の椅子は、なくならない。仲裁の労を執る者は、卓が動かぬほど、その卓の上に長く座っていられる。
(これは、上座の話では、ないのかもしれない)
彼女は、新しい紙を一枚、引き寄せた。そこに、二つの名を書いた。ドレン。ラゴサ。そして、少し離れた場所に、三つ目の名を書いた。ロタール・カシス。
二つの名の間に線を引き、その線の上に、三つ目の名が、橋のように架かっていた。橋がある限り、川の両岸は、決して直に手を繋げない。
(渡すべきは、橋ではなく――岸から岸へ、直に架ける、一本の板)
灯りが、ふっと揺れた。レオノーラは、その紙を伏せた。まだ、誰にも見せる段ではなかった。
お読みくださり、ありがとうございます。
条文は済んでいるのに、名前の順で一年止まった卓。今回、その膠着を「並べ替えて」みると、当事者二人の意地とは別の絵が、うっすら透けてきました。譲れない二人と、その二人が譲らないほど得をする、三人目。
レオノーラの武器は魔法ではなく、記録を並べ替え、透かして見る目です。次回、彼女が見抜いた「上座ではない、本当の行き止まり」の正体を、一手で示します。
ブックマークと評価、いつも励みにしております。次回もどうぞ、お付き合いください。




