第31話 塩の道の、行き止まり
フリーセンには、いくつも顔がある。
運河の顔、両替商の顔、市の顔。そして、どの国の旗も掲げないという顔。城壁を持たぬこの都市に、旅の商人が安んじて荷を解くのは、ここでは誰も、他人の背丈を勝手に測らないからだった。
レオノーラ・アーレンスは、ロート商会二階の帳場で、一葉の手紙をもう一度読んでいた。
封蝋の紋は、見覚えのないものだった。サヴァル連合の、南の。麓の隊商市ラゴサの印だという。文面は短く、装飾がなく、そのくせ、どこか焦れていた。
(条文は、済んでいる。……そう書いてある)
彼女は、その一行を指でなぞった。揉め事の相談というのは、たいてい「まだ何も決まっていない」ところから始まる。だがこの手紙は逆だった。決まっているのに、動かない、と書いてある。
*
「連れてきたよ、お嬢さん」
階段を上がってきたのは、イレーネだった。市場の埃と、隊商の匂いを、外套の裾に少し残している。その後ろに、日に灼けた男が一人。年の頃は四十がらみ、山を歩く者の脚をしていた。
「ラゴサのお使いさ。あたしの塩の筋を頼って、はるばる峠を三つ越えてきたって」
男は、帽子を脱いで胸に当てた。礼の作法が、王国のものとも、ヴェルダンのものとも違う。胸の前で、右手を左肩にあてる。サヴァルの、山の礼だった。
「アーレンス殿。私はラゴサのサビナ・コルト様の使いで、ヨナと申します」
「どうぞ、お掛けください。……お茶は、どうなさいますか。灰緑か、麦を煎じたものか」
「麦を。……山の者は、灰緑は苦手でして」
(ヴェルダンの茶を、避ける。――それだけで、少し見えるものがある)
レオノーラは、ニコに目で合図した。ニコが、麦湯を運んでくる。ヨナは、両手で椀を包むように受け取った。
「単刀直入に申します」
男は、こう切り出した。「サヴァルの南で、塩の道の話が、一年、止まっております」
「塩の道」
「高地のドレンに、岩塩の鉱がございます。麓のラゴサに、それを平地へ流す関がございます。二つを繋げば、道は一本になる。関を一つにし、税を分け合い、盗賊への備えも共にする。――双方、それが利だと分かっております。条文も、ほぼ書き上がっております」
「では、何が」
ヨナは、少し口ごもった。それから、恥じるように言った。
「協定に、名を付ける段で、止まりました」
*
室に、短い沈黙が落ちた。
「名、と申しますと」
「『ドレン・ラゴサ協定』か、『ラゴサ・ドレン協定』か。……どちらの名を、先に書くか」
ニコが、書記の机で、思わず顔を上げた。
「それだけ、っすか」
「それだけ、で一年です」
ヨナの声は、疲れていた。「ドレンは古い邑です。山に塩を抱いて、何百年も動かずにいた家柄だ。麓の新参に名を先んじられるくらいなら、道など要らぬと言う。ラゴサは、その塩を売って市を大きくした。運ぶ苦労も知らぬ高地の連中の、後ろに回るいわれはないと言う。……お恥ずかしい話です」
「恥ずかしくは、ありません」
レオノーラは、静かに言った。「名の順序で国が止まるのは、名を軽んじている国では起こりません。名を、重んじているから止まるのです」
ヨナが、はっと彼女を見た。
「条文が済んでいるのなら、揉めているのは中身ではありません。誰が上か、という一行だけ。――それは、私の得意な種類の、行き止まりです」
(言葉の精度で、動く。あるいは、動かない。……これは、そういう卓ね)
「もう一つ、伺います。連合の評議は、この件に、どう関わっておいでですか」
ヨナの顔が、わずかに曇った。
「評議長の、ロタール・カシス様が……仲裁の労を、執っておられます。もう、一年」
「一年、労を執って、動かない」
「はい」
レオノーラは、それ以上は聞かなかった。聞くまでもない一行が、また一つ、卓の上に増えただけだった。
*
ヨナが宿へ戻ったあと、ヴェルナー・ロートが帳場に上がってきた。老商人は、卓に残された麦湯の椀を一瞥し、それから、めずらしく機嫌の良い声で言った。
「サヴァルの塩の道、か」
「聞いておられたのですか」
「商人の耳は、床の下にもある」ヴェルナーは、にやりとした。「あの道が一本になれば、山の塩が、今より安く、多く、平地へ流れる。フリーセンは、その中継にちょうどいい位置だ。――お前さんが纏めれば、うちの帳場が、少しばかり潤う」
(そう。潤う。……雇い主の顔で、そう言う)
レオノーラは、椀を片づける手を止めなかった。
「まだ、引き受けると決めておりません」
「ほう。珍しいな、お前さんが卓を惜しむのは」
「惜しんでは、おりません。ただ――」
彼女は、窓の外へ目をやった。運河の水面が、夕日を含んで、赤い。
「その道が、ロート商会に利するかどうかは、私が卓に着く理由には、なりません」
ヴェルナーは、少しの間、黙った。それから、低く笑った。
「相変わらず、値のつけにくい娘だ」
「値は、纏めてから、いただきます。纏まらねば、一銭も」
老商人は、それきり何も言わずに、帳場を下りていった。彼の期待と、彼女の中立とが、同じ卓の上に、まだ静かに載っている。どちらも下ろされないまま、明日を待っていた。
(引き受けましょう。ただし、誰の道でもない道として。――誰の名も、先には書かせない)
窓の外で、両替商の鈴が、一つ鳴った。相場が動いた合図だった。塩の相場も、いずれ動く。動く前に、卓を整えておかねばならなかった。
第二部「対等の卓」、始まりました。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
第一部で「言葉の通じなさ」を描いたレオノーラの、次の卓は「名前の順序」です。条文は済んでいるのに、どちらの名を先に書くかだけで一年止まった山の道。――中身ではなく、格と面子で動かなくなった卓を、彼女はどう組み直すのか。
新しい国、新しい顔ぶれ。そして、遠くでまだ卓を見ているヴェルダンの宰相。次回、サヴァルの事情に、もう一歩踏み込みます。
ブックマークと評価が、次の一行を書く手の支えです。どうぞ、もう一席、お付き合いください。




