第30話 黙した外交、その先へ
フリーセンの朝は、両替商の鈴の音から始まる。
城壁を持たぬ都市には城門がない。その代わり、街道の入口には両替商の看板が並び、旅の商人はそこで貨を替え、その日の相場を耳に入れてから市へ入る。鈴は、相場が動いた合図だった。
レオノーラ・アーレンスは、ロート商会の二階の窓辺で、その音を聞いていた。
卓の上には、一枚の写しがある。先日、フリーセンの旧議場で交わされた、平和条約の更新文書。順を通し、席を整え、茶を供し、そうして卓に着いた両者が、面子と実利を一行ずつ削り合って結び直した、対等の条文だった。
(条約は、更新された。対等に、守られる形で)
二割は、すでにロート商会の帳場に積まれている。纏まらなければ一銭も取らぬ約定だったが、これは纏まった。彼女の手で。
ニコが、街道の埃を肩につけたまま階段を上がってきた。
「レオノーラさん、ヴェルダンの一行、北の街道を抜けたっす。ファルク宰相も、オズワルド大使も。――ちゃんと、灰緑の茶を一服してから発ったって」
「そう」
「あの茶、二煎目から供すと『話を聞いてやる』って合図なんすよね。出立に出されたってことは……」
「次も、卓に着く用意がある、ということです」
ニコが、少し笑った。
「敵が、わざわざそれを置いて帰るんすね」
ニコは、机の上に伝令袋を下ろした。元は国境の伝令だった青年だ。街道の埃と、何里を駆けたかが、まだ肩に残っている。
「おれ、最初にレオノーラさんの荷を運んだとき、鞄ひとつしかなくて驚いたんすよ。外交を一手に担ってた人の荷が、これだけかって」
「書類は、頭の中にありますから」
「それが、いちばん厄介だったんすね。王宮は」
レオノーラは、答えなかった。答えるまでもなかった。外交の手順も、各国の慣習も、要人の好悪も、すべて一人の頭の中にあった。王国は、その頭ごと外へ出した。鞄ひとつの軽さが、王国の喪失の重さだった。
*
昼すぎ、イレーネが市場の風を運んできた。
「はっ、聞いたかい」
彼女は椅子に腰を落とすなり言った。「王宮のガルム伯爵、外務卿の座を解かれたとさ。交易許可の差配が、伯爵の懐に流れてた金の筋が、表に出ちまったんだ」
レオノーラは、頁から目を上げなかった。
「半年前、あんたに差配を断られた恨みでね。ミレーユのお嬢ちゃんを担ぎ上げて、あんたを冷たい女に仕立てて、引き継ぎ書を握り潰した。――その全部が、商人網の帳簿で繋がっちまった。いい気味だ、とは言わないけどさ」
「言っていますね」
「言ってないよ」
イレーネは肩をすくめた。それから、思い出したように付け足す。
「そういや、王太子さまも気の毒なもんさ。外務をガルムに任せて、補佐をミレーユにして、半年で外交がまるごと止まった。今ごろ、誰かの名前を呼びかけて、その人がもう城にいないのを思い出してるんじゃないかね」
(助かったよ、レオノーラ。――言いかけて、相手が不在だと気づく)
その所作は、もう、彼女の前では起きない。彼女はその一言を待つ位置から、とうに退いている。善良で鈍い元婚約者が、誰に頼ればよいかを自分で探すのは、彼自身の卓の話だった。
「あの人は、悪い人じゃなかった」
レオノーラは、それだけ言った。「ただ、外交を、一人に預けすぎたのです。王国ごと」
「で、その一人が、城の外に出たわけだ」
「ええ」
イレーネは、にやりとした。それから、声を少しだけ落とした。
「ミレーユのお嬢ちゃんは、王宮を出たそうだ。誰に焚きつけられて、何に使われたか、洗いざらい話したらしい。悪意の主犯じゃなかった。ただ、語学が達者なだけの娘が、利用されただけさ」
(火種を撒いた者は、去った。撒かれた側は、まだ若い)
レオノーラは、ごく短く言った。
「それは、彼女が自分で気づいたのなら、悪いことではありません」
ガルムは、外交を紙ではなく人の心でするものだと笑った。その人の心を、彼は読み違えた。商人の網も、利を逃した者の恨みも、すべて人の心の動きだった。因果は、半月や一月では効かない。けれど、必ず、遅れて効く。
*
夕方、ヴェルナー・ロートが帳場から上がってきた。
老商人は、卓の上の二割を、満足げに眺めた。
「で、次はいくらの話だ?」
「まだ、何も」
「ほう。珍しいな、お前さんが卓を空けてるのは」
ヴェルナーは、窓の外へ目をやった。日が、運河の水面を赤く染めている。
「お前さんの母上もな、卓を空けることがあった。一行を、本来あるべき位置に戻したあとは、しばらく、ただ水を眺めていた。――よく似てきたよ」
レオノーラは、何も言わなかった。母は、荷を救ったのではなく、一行を戻しただけだと言った。娘もまた、王国を救ったのではない。属人化した一本の糸を、誰のものでもない卓の上に、解いて置き直しただけだった。
かつて新参のヴェルナーの荷を、彼女の母が同じ手で――一行を本来の位置に戻して――流したことがある。値踏みもされなかった恩だ。その娘を、ヴェルナーは値踏みもせず雇った。
「あんたを雇った理由を、まだ聞かんのだな」
「いずれ、帳簿のどこかに書いてあるのでしょう」
「商人の帳簿に、恩の項目はないさ」
老商人は、それきり笑って、何も言わなかった。言わずとも、卓の上の二割が、もう答えになっていた。纏めたから払う。纏まらねば一銭も取らぬ。彼女が自分で出した条件で、彼女は自分の居場所を、自分の手で稼いでいた。
(私は、もう、誰か一人の駒ではない)
切られた者は、城の外で、卓を回す側になった。王国が外交を一人に紐づけ、その一人を切ったとき、王国は自分の手で、その糸の在り処を失った。けれど糸は切れてはいなかった。中立の卓の上で、誰の所有でもないまま、まだ動いている。
ニコが、書記の机から顔を上げた。
「レオノーラさん。手紙、一通。封蝋が……これ、ヴェルダンの宰相のやつっす」
卓に、薄い一葉が置かれた。装飾のない、短い文。ファルクの手だった。
『次は、貴公の正面に座る者が、味方か敵か。それは、その卓が決める。――楽しみにしている』
レオノーラは、それを二度読んだ。
(敵としてか、それとも。――まだ、決めていない。それでいい)
ヴェルナーが、その一葉を横目に見て、低く言った。
「あの宰相、お前さんを欲しがってたな。ヴェルダンへ来い、と。王宮はと言えば、復職に、縁談の白紙まで添えて寄越した。――どちらも、断ったそうだな」
「受けない道を、選びました」
「未練は、ないのか」
「ありません」
二通の誘いは、もう、どこにも残っていない。ヴェルダンの卓にも、王国の卓にも、戻らないと決めた日に、彼女は両方を閉じた。残ったのは、誰のものでもない卓の、東の短辺。仲介人の席だけだった。
(戻る席は、もうありません。あるのは、これから組む卓だけ)
*
その夜、もう一通が届いた。
封蝋の紋は、見覚えのないものだった。ニコが首をかしげる。
「メーアでも、サヴァルでもない……どこの国っすか、これ」
「サヴァル連合の、南の」
レオノーラは封を検めた。「面子の並びで揉めている、と。条文ではなく、名前の順序で卓が立ち往生している。――仲介を、と」
「次の依頼っすね」
「顔のある相手が、また一人」
彼女は、手紙を卓の端に置いた。すぐには開かない。断りの返書を急がぬのが作法であるように、引き受ける返書もまた、相手の足元を見てからでいい。
窓の外で、両替商の鈴が、もう一度鳴った。相場が、また動いた合図だった。
ニコが、街道のほうを見て言った。
「レオノーラさん、フリーセンって、変な街っすよね。城壁がないのに、どこより安全だ。――誰のものでもないから、誰でも卓に着ける」
「卓は」
レオノーラは、新しい白紙を一枚、引き寄せた。
「中立であれば、誰でも着けます。揉め事のある限り、卓は尽きません」
彼女は、その一枚を、しばらく見つめた。それから、ごく静かに、内心で締めた。
(黙した外交は、終わった。けれど、卓は、まだ続く。――次は、どこに座りましょうか)
筆を執る音だけが、夜のロート商会に、小さく残った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。第一部「黙した外交」、これにて完結です。
婚約破棄で外交の卓を追われた娘が、中立都市フリーセンで、誰の駒でもない仲介人として立つまでの三十話。条約は対等に守られ、追い落としの真相は表に出て、彼女はもう一人の駒には戻りません。ここまで伴走してくださった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
次より、第二部「対等の卓」が始まります。ファルクからの含みのある一手、新たな国からの依頼。次の卓は、どこに――。引き続き、レオノーラの段取りを見届けていただけたら幸いです。
ブックマークと評価が、第二部の一行目を書く手の、いちばんの支えになります。どうか、もう一席だけ、お付き合いください。




