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第29話 「冷たい」と言った人へ

 ロート商会の帳場に、王宮の馬車が着いたのは、よく晴れた昼前だった。


 布で覆い隠した紋章ではなかった。リーゼンの紋を、堂々と掲げた馬車だった。御者が扉を開けると、降りてきたのは使者でも側近でもなく、王太子ロデリック・リーゼンその人だった。


 ニコが帳場の奥から飛んできて、声を潜めた。

「レオノーラさん。王太子が……ご本人が、来てるっす。お忍びでも、内々でもなく」


「存じています」

 レオノーラは、羽根ペンを置いた。「順を飛ばさず、布もかぶせず、正面から来た。――ガルム伯爵が退いた、その確かな証です」


 ガルム伯爵の追い落としが露見し、外務卿の座を解かれてから、まだ日は浅い。交易許可の差配に流れた金の筋は、イレーネの網が残らず掬い上げていた。利用されたミレーユは、自ら王宮で証言に立ったという。


「あの伯爵が、全部仕組んでたって……ほんと、いい気味——」

 ニコが言いかけて、口をつぐんだ。レオノーラが、彼を一瞥したからだった。


「気味は、こちらが言うものではありません」

 彼女は、羽根ペンの先を布で拭った。「因果は、向こうが勝手に刈り取ります。私たちが手を貸す必要は、もうない」


 扉の向こうで、ロデリックが帽子を脱いだ。


 *


 帳場の小卓を挟んで、二人は向き合った。


 ロデリックは、座る前に深く頭を下げた。王太子が、城を持たぬ商家の帳場で、一介の交渉人に。それは、誰に強いられたのでもない所作だった。


「レオノーラ」

 彼は、顔を上げてから言った。「ガルムのことは、すべて聞いた。あの男が何を企み、君が何を握り潰されたのか。……私は、何も見ていなかった」


「お聞き及びでしたら、繰り返しはいりません」


「いや、言わせてくれ」

 ロデリックは、卓の木目を見つめた。「私は君を『冷たい』と言って、切った。臣下が息を詰まらせると、君のせいにした。――本当は、息を詰まらせていたのは、君の正しさに甘えていた私のほうだった」


 彼の声に、虚飾はなかった。善良な人だった。鈍くはあっても、悪人ではない。それが、いつも厄介だった。


「君がいなくなって、初めて分かった」

 ロデリックは続けた。「外のことは何も心配しなくていい――私は、ずっとそう言っていた。あれは、君が一人で全部背負っていた、ということだったんだな」


 (ようやく、この人は、自分が手放したものに気づいた)


 レオノーラは、何も言わなかった。取り乱しもせず、なじりもしない。ただ、彼が言葉を終えるのを、静かに待った。


 *


「だから、申し入れに来た」

 ロデリックは、姿勢を正した。「外務の卓に、戻ってほしい。今度こそ、正式に。君の手帳に書かれたものを、王国は何ひとつ引き継げなかった。君がいなければ、この国は隣国の前で立てない」


「それは」

 レオノーラは、初めて口を開いた。「もう、王国がご自身で、お抱えになるべきことです」


 ロデリックは、わずかに息を呑んだ。それから、もう一歩を踏み出した。


「……それと、もう一つ」

 彼は、言葉を選んだ。「縁談のことだ。私は、間違えた。君を手放したことを、悔いている。もしも君が、もう一度――」


「ロデリック様」


 レオノーラは、彼の言葉を、声を荒らげずに止めた。


 間があった。


「私は、戻りません」


 窓の外で、運河の水が低く鳴った。


 *


「外務にも、縁談にも」

 彼女は、平らな声で続けた。「私は、王宮の駒として、卓に着いていました。婚約者という名の、いちばん外せない駒として。――その席には、もう座りません」


「駒だなんて、私は」

「お言葉ですが」

 レオノーラは、ごく静かに遮った。「あの卓では、私の私情は、要らぬものでした。婚約者であろうと、なかろうと、席次の火種は同じように消さねばならない。茶の温度は、同じように整えねばならない。――情を交渉に持ち込めば、文面が一行、歪みます。だから私は、持ち込まなかった」


 ロデリックが、目を見開いた。


「あなたは、それを『冷たい』とおっしゃった」

 彼女は、彼を見た。なじる色は、どこにもなかった。「でも、あれは冷たさではありません。私情を、卓に載せない――それだけのことでした」


 間。


 彼女は、卓の上の茶碗を、ほんの少し、彼のほうへ寄せた。それだけの所作だった。私情を載せぬ手は、こういうときも、ただ正しく整える。


「私が温度を消していたから、あなたは外のことを心配せずにいられた。温度を消す者を『冷たい』と呼ぶなら、私は、これからも冷たくしか生きられません」


 ロデリックは、何も返せなかった。


 あの日の控えの間で、彼が投げた一言が、ようやく、事実として彼のもとへ返っていた。声を荒らげるでも、責めるでもなく。ただ、何だったのかを、彼に手渡しただけだった。


 *


「私は今、どちらの国の駒でもありません」

 レオノーラは、卓の上で両手を軽く重ねた。「リーゼンの卓にも、ヴェルダンの卓にも着かず、その間に立つ交渉人です。私の値打ちは、どこにも属さないことにあります。属した瞬間に、私は半分になる」


「……君を、また誰かの駒にすることに」

 ロデリックは、ようやく悟ったように、息を吐いた。「私は、なるところだった」


「悪気がないのは、存じています」

 彼女は言った。「それが、いちばん厄介なところです」


 ロデリックは、力なく、しかしどこか吹っ切れたように笑った。それは、甘えを一つ手放した者の顔だった。


「分かった」

 彼は、立ち上がった。「もう、戻ってくれとは言わない。縁談のことも、二度と口にしない。――ただ、一つだけ訊かせてくれ」


「なんでしょう」


「これからリーゼンが、ヴェルダンの卓に着くとき」

 彼は、まっすぐに彼女を見た。「君は、私たちの側にではなく……その、真ん中に座るんだな」


「左様です」

 レオノーラは、頭を下げなかった。下げる必要が、もう無かった。「どちらの側にも与せず、どちらの卓にも物を運びます。それが、あなた方にとっても、いちばん公平な席です」


 ロデリックは、しばらく彼女を見ていた。それから、深く頷いた。恨みも、未練も、そこには残っていなかった。元の鞘には戻らない。けれど、禍根もない。二人は、別々の道を行く者として、初めて対等に向き合っていた。


「世話になった」

 彼は、帽子を取って、もう一度だけ頭を下げた。「いや――これからも、卓の上で、世話になるんだろうな」


「卓の上であれば」

 レオノーラは答えた。「喜んで」


 *


 馬車が遠ざかると、ニコが大きく息を吐いた。

「レオノーラさん……断っちゃった、っすね。王太子の、復縁。ふつう、あんなに頭下げられたら、ちょっとはぐらつくもんじゃ」


「ぐらつく理由が、ありません」

 レオノーラは、卓の上の二通の書状を、それぞれ静かに伏せた。ヴェルダンの誘いも、王宮の誘いも、もう、どこにも残っていなかった。


「戻れば、また同じ卓の、同じ側に座ることになります。私が選んだのは、そこではありません」


 彼女は、窓の外を見た。両替商の看板が、昼の光に鈍く光っていた。城壁を持たぬ街の、城門の代わりの看板だった。


(王宮との卓に、区切りがついた)


 長く立っていた席を、彼女は今度こそ、自分の意思で離れた。あのとき手放したのは役目だった。今日手放したのは、その役目に縛られていた自分のほうだった。


「ニコ」

 レオノーラは、羽根ペンを取り直した。「次の卓は、どこでしたか」


 ニコが、にやりと笑った。

「待ってる人、いっぱいいるっすよ。フリーセン中の卓が、レオノーラさんを呼んでるっす」


 彼女は、頷いた。


(さて。――次の卓へ)


 第一話で投げられた「冷たい」の一言を、二十数話を経て、彼女は事実として返しました。声を荒らげず、なじらず、ただ何だったのかを手渡しただけ。復縁はありません。けれど禍根も、もうありません。

 王宮との長い卓に、区切りがつきました。次から、レオノーラは本当の意味で、誰のものでもない交渉人として歩き出します。次の卓で、彼女を待っているのは――。

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