第21話 対等の、卓
フリーセンの旧議場。中立都市の流儀で上座を持たぬその一間が、その日のために空けられていた。
卓は、円い。中立の都市の流儀では、長すぎる卓は格を競う場になる。ヴェルナー・ロートは、六人が手を伸ばせば指の触れる距離に座れる円卓を据えさせた。窓は、北の一方にだけ開いていた。
席は、レオノーラが組んだ。
窓を背にする側に、ヴェルダンの一行――宰相ファルクと大使オズワルド・カイ。その正面、南の側に、リーゼン王国の外務卿ガルム伯爵と補佐ミレーユ・サンク。そして東の短辺、どちらの国にも属さぬ位置に、仲介のレオノーラ・アーレンス。卓に着いたのは、その五人だった。
ヴェルダンの二人は、窓を背にする側に揃って着いた。オズワルドはそこへ腰を下ろすとき、ほんのわずかに眉を動かした。退路の取れぬ向きに座らされたことに、すぐ気づいたのだろう。
ファルクは何も言わなかった。同じ窓背の席にありながら、卓のどこに座っても、彼の視線は全員に届いていた。
(席は、通った。次は言葉)
レオノーラは内心で短く確認した。
茶が運ばれた。灰緑。一煎目は供されず、二煎目だけが、くすんだ緑の湯のまま客の前に置かれた。香りは薄い。ヴェルダンの二人は、それを当然のものとして口にした。淹れ直しのしるしを、彼らは黙って受け取った。
「結構な席だ」
ファルクが、慇懃に言った。「中立の卓とは、よく整っている。これなら、こちらも話を始める気になる」
話を、始める気になる。その一語に、含みがあった。整っていなければ始めなかった、という意味だった。レオノーラは黙礼で受けた。場が壊れぬよう、波を立てずに。
「では」
ガルムが、待ちかねたように身を乗り出した。「平和条約の更新について、こちらの意向を申し上げたい。ミレーユ、頼む」
ミレーユが、流暢なヴェルダン語で口を開いた。発音はなめらかで、抑揚も美しかった。挨拶の一節は、淀みなく卓を渡った。
ファルクが、薄く笑った。
「お見事な発音だ。客間の言葉が、よくお出来になる」
彼はそう言って、卓の上の条約文の写しを、指先で軽く叩いた。「ところで、こちらの第四条――〈効力の継続を、従前の格をもって確認する〉。この〈格〉を、貴国はどう訳しておられる」
ミレーユが、その語に目を落とした。
〈格〉。彼女は知っていた。地位のこと。位のこと。ならば――身分に応じて、ということだろうか。
「……〈これまでどおりの地位をもって〉、と」
彼女は答えた。発音は、やはり完璧だった。
ファルクは、笑みを崩さなかった。崩さないことで、相手を裸にした。
「地位、とな」
彼は静かに言った。「〈格〉は、ヴェルダンの宮廷の言葉では、地位ではない。卓に着く順を指す。誰が先に申し入れ、誰が後に受けるか――その順序のことだ。〈従前の格をもって〉とは、二十五年前と同じ順で更新の卓に着け、という意味だ。地位の話では、ない」
ミレーユの頬から、色が引いた。
「客間の言葉では、地位でよろしい」
ファルクは、追い打ちを慇懃の衣で包んだ。「だが、これは台所の用だ。条約の卓は、台所だ。客間の言葉で、台所の用は足せませぬ」
卓に、沈黙が落ちた。
ミレーユは、文字を読めていた。一語一語、すべて読めていた。読めるのに、文が、自分の知っている世界の外を指していた。六カ国語を話すと評判の才女が、本物の海千山千を前に、初めて言葉の底を踏み抜いた。流暢さは、ここでは何の役にも立たなかった。
(露呈した。ここで、決定的に)
レオノーラは、その光景を静かに見ていた。半年前、王宮の小書庫で握り潰された一語が、いま、別の卓で同じ娘の手をすり抜けていく。責める気は、起きなかった。利用された側が、利用された場所で裸にされる――それだけのことだった。
オズワルドが、初めて口を開いた。
「宰相。これでは、話が進まぬ。先方は、こちらの条文の意味も取れぬご様子。卓を改めては」
彼は灰緑の茶を一口含み、窓を背にした席から、ゆっくりと王国側を見渡した。試す目だった。揺さぶる声だった。「いや――そもそも、貴国は更新の手順を、ご存じなのか」
手順。その一語が、卓の中央に置かれた。
ガルムが、何か言いかけた。だが、言葉が続かなかった。手順を、彼は知らなかった。引き継ぎ書の四十二頁を、彼は鼻で笑って受け取らなかった。鍵は王宮にある。だが鍵を回す手つきを、王国の誰も覚えていなかった。
オズワルドの口の端が、わずかに上がった。獲物の足元が見えた、という顔だった。
*
レオノーラは、ここで初めて声を出した。波を立てぬ、平らな声で。
「大使閣下。手順の話は、卓に着いてからにいたしましょう」
彼女はオズワルドを見た。「いま卓に着いておられるのは、その手順を踏むためです。順を飛ばして手順を問えば、それはこの卓を改めることになります。せっかく整えた卓を、二煎目を供したこの卓を、改めてしまわれますか」
二煎目。その一語で、オズワルドの動きが止まった。
灰緑の二煎目は、「申し入れを聞いてよい」という、ヴェルダン側から王国側への合図だった。それを供させたのは、ほかならぬ仲介人だった。卓を改めると言えば、自国の出した合図を、自国の大使が引っ込めることになる。
(合図は、もう卓に出ている。引けば、ヴェルダンの面子が傷つく)
オズワルドは、茶器に手を戻した。
「……仲介人の言うとおりだ。卓は、改めぬ」
ファルクが、レオノーラを見た。初めて、まっすぐに。
「アーレンス公爵令嬢」
彼はその名を、わざと使った。「席を組み、茶を選び、卓を改めさせぬ。なるほど、王国の外交が、長く一人の頭の中にあったというのは――本当らしい」
レオノーラは答えなかった。答えれば、それを認めることになる。認めれば、王国の弱みを卓に晒すことになる。
ファルクは、その沈黙を楽しむように、ゆっくりと茶を含んだ。
「結構。今日は、卓に着いた。それで充分だ」
彼は写しを閉じた。「更新には、手順がある。順を通し、席を整え、作法を違えず、期限までに卓を運ぶ。――王国に、それができますかな。鍵は王宮にあるそうだが、鍵を回す手は、いまどこに座っておられる」
彼の視線が、仲介の席へ、ほんの一瞬だけ流れた。
レオノーラは、それを受けて、何も言わなかった。
(この人は、最初から見ている。王国が手順を踏めぬことを。踏めぬまま、期限が来ることを)
ファルクの狙いは、卓を壊すことではなかった。卓を、ただ長引かせることだった。手順を踏めぬ王国が、踏めぬまま晦日を迎え、条約が自動で失効へ滑り落ちる――そのときを、彼は待っていた。失効した国は、対等の卓には、もう着けない。
今日の卓は、その第一日だった。
*
その夜、帳場で。
ニコが、まだ昼の卓の空気を引きずった顔で言った。
「レオノーラさん。あの宰相、なんも無茶を言ってこなかったっすよね。なのに、なんか……すげえ嫌な感じだったっす」
「無茶を言う必要が、ないからです」
レオノーラは帳面を閉じた。「あの人は、急がなくていい。卓を長引かせるだけで、期限が向こうの味方をする。王国が手順を踏めなければ、条約はひとりでに失効へ向かう。手を汚さずに、隣国を従属させられる」
「……ほっとくだけで、勝てるってことっすか」
「ええ。だから、こちらが急ぐしかありません」
彼女は窓の外を見た。北の空は、まだ薄く曇っていた。晦日まで、卓に残された日は、もう多くなかった。
流暢に喋れることと、文の裏を読むこと。第5話で胸に落ちた小さな影が、いちばん見られたくない卓で、いちばん大きな形になりました。
ファルクは、無茶を言いません。言わずに勝とうとしています。手を汚さぬ策に、レオノーラはどう手順を運ぶのか。
次話、卓は二日目へ。お読みくださりありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一手の灯りになります。




