第22話 それは、通訳ではありません
フリーセンの旧議場。更新交渉の二日目は、卓の温度が一日目より低いところから始まった。
円卓の窓を背にする側にヴェルダンの一行――宰相ファルクと大使オズワルド・カイ。その正面、南側に王国側――外務卿ガルム伯爵と、補佐のミレーユ・サンク。卓の東の短辺、どちらの国にも属さぬ席に、レオノーラ・アーレンスが座していた。中立の仲介人の席である。
ガルムは昨日の不首尾を、まだ自分の不首尾だとは思っていなかった。
「では、本日は前置きを省きましょう」
彼は手を打ち、開口一番にそう言った。「時は金なり。互いに腹を割り、早々に話を進めようではありませんか、宰相閣下」
ファルクは答えなかった。ただ、ほんのわずか、瞼を伏せた。
(火種。順番)
レオノーラは内心で、卓の下に落ちたものを数えた。ヴェルダンの卓では、上位の客が口火を切るまで、主人は本題に入らない。ファルクはこの卓の客であり、年功でも位でも上にあった。ガルムが先に「省きましょう」と言ったのは、相手から発言の順を奪ったに等しい。
ミレーユが、すかさず訳した。
「閣下。外務卿は『前置きは省き、早く本題に入りましょう』と申しております」
字面のとおりだった。一語も、間違ってはいなかった。
だからこそ、火に油が注がれた。ヴェルダン語で「前置きを省く」は、台所の言葉では時間の節約を指すが、客間の言葉では「あなたの口上を聞く価値はない」という侮りに転ぶ。ミレーユはその一語を、台所の重さで運んだ。
ファルクの傍らに控えた書記が、羽根ペンを止めた。
「……ほう」
ファルクが、初めて声を出した。低く、乾いている。「リーゼン王国は、二日続けて、我が国の口上を不要とお考えか」
ガルムの顔から、血の気が引いた。彼は何が起きたのか分からなかった。自分は急ごうと言っただけだ。なぜ相手が気色ばむのか、見当もつかない。
「い、いや、そういう意味では」
「ではどういう意味か。通訳に、もう一度伺いましょう」
ファルクの目が、ミレーユに向いた。
ミレーユは、はじめて自分の訳した言葉が宙で別の形になったことに気づいた。文字は合っている。なのに、相手は侮辱されたと言う。読めるはずの言葉が、また手のひらをすり抜けていく。
「わ、わたくしは、文字どおりに……」
「文字どおり」
ファルクは繰り返した。「文字どおりに訳して、意味が通じぬのなら、それは通訳とは申しません」
卓が、静まった。
ガルムは助けを求めるように左右を見回した。ミレーユは俯いた。王国側の卓だけが、急に二人きりのように寒々しくなった。
間。
レオノーラは、その間を、ちょうど一拍ぶん置いてから、口を開いた。
「宰相閣下。差し出口を、お許しください」
彼女の声は、卓のどこよりも低く、平らだった。「いまの一言は、口上を省くという意味ではございません。早く閣下のお話を伺いたい、という焦りの裏返しと存じます。焦りは、敬意の出来そこないでございます」
ファルクの視線が、東の短辺へ移った。
「敬意の、出来そこない」
「左様です。順を違えたのは、急いたからです。急いたのは、閣下のお時間を惜しんだから。――不調法ではございますが、侮りではございません」
彼女は、ガルムを庇いはしなかった。庇えば嘘になる。ただ、宙に浮いた一語を、本来の重さに置き直した。台所の言葉で運ばれた句を、客間の卓へそっと載せ替えた。
ファルクは、しばらく彼女を見ていた。値踏みする目だった。商人が秤の針を読むときの、あの静かさだった。
「……仲介人どの」
彼はやがて言った。「あなたは、王国の通訳ではない」
「はい。わたくしは、どちらの国にも属しません」
「ならば、なぜ王国の不調法を、わざわざ買って出て繕う」
「繕ってはおりません」
レオノーラは答えた。「卓に火が点けば、両国とも焼けます。火を消すのは、仲介人の仕事です。どちらの肩も持たぬのが、中立というものでございましょう」
ファルクの口元が、ほんのわずか動いた。笑みではなかった。確認の印だった。彼は卓に置いた手を、一度だけ、軽く返した。話を、続けてよい、という所作だった。
*
休憩の半刻。
王国側の控えの間で、ガルムは椅子に深く沈んでいた。
「……あの女」
彼は吐き捨てた。「結局、また我々が、あの女に助けられた格好ではないか」
ミレーユは、何も言えなかった。彼女の手には、二日ぶんの訳文の控えがあった。一語ずつ、辞書のとおりに正しい。正しいのに、卓では一度も通じなかった。彼女は今ようやく、王宮の小書庫で胸に落ちた小さな影の正体に、輪郭を与えはじめていた。
(わたくしの言葉は、客間の用を、台所の手で足していた)
控えの間の壁ごしに、彼女はあの低い声を思い出した。焦りは、敬意の出来そこない。自分には、ひとつも出てこなかった言葉だった。
*
同じ刻限。王宮、ロデリックの執務室。
交渉の経過は、早馬で日に二度、王宮へ届く。ロデリックは二日目の報せを、立ったまま読んだ。
――仲介人、火種を消す。王国側の不調法を中立の側より収拾。
たった一行の報告だった。だが彼には、その一行の裏が見えた。卓のどこかで、ガルムが何かを踏み、ミレーユの言葉が宙に浮き、そして誰かが、淡々とそれを置き直したのだ。短く、過不足なく。条件と、書き換えと、段取りだけで。
その「誰か」の名を、彼はもう知っていた。
「助かったよ、レオ――」
言いかけて、口をつぐむ。礼を言う相手は、王国の卓にはいない。卓の、向こう側にいる。彼が自ら、向こう側へ追いやった。
彼は報告書を机に置いた。指先が、紙の端を、わずかに撫でた。
(私が手放したものを、いま、他国の卓が借りている)
胸の底で、何かが遅れて軋んだ。それは昨日より、一段深いところで鳴った。
*
フリーセン。再開後の卓。
午後の議は、表向き穏やかに流れた。ファルクは無理を言わず、ガルムは口数を減らし、ミレーユは訳す前に一度、レオノーラの方をうかがうようになった。波風は、立たなかった。
だが、レオノーラは安堵しなかった。
(凪いでいる。凪ぎすぎている)
ファルクは、二日目をまるごと、彼女の腕を測ることに使った。王国の不調法は、彼にとって、ただの試薬だった。卓に毒を一滴落とし、誰がどう拭うかを見る。拭ったのは、王国でも通訳でもなく、東の短辺に座る娘だった。彼はそれを、確かに見届けた。
日が傾き、書記が燭台を運び入れたとき、ファルクがようやく、卓の中央へ一枚の書面を滑らせた。
「では、明日。本題に入りましょう」
彼の声は、初めて満ちていた。「平和条約の、更新の手順について。――どちらの国が、正しく席に着けるか。それを、確かめさせていただく」
書面の表題に、レオノーラの目が留まった。
(来た)
彼女は燭台の灯を、まっすぐに見た。それは、本命の一手の、影だった。
二日目は、相手が王国を試す日でした。火種を消す者が誰なのかを、宰相は静かに見定めていきます。
次話、ファルクが卓の中央に滑らせた一枚――更新の「手順」をめぐる罠が、ようやく牙を見せます。鍵は王宮にあり、鍵を回す手つきは、卓の向こう側にしかありません。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。ブックマークと評価が、明日の卓を照らす燭台になります。




