第15話 頭の下げ方を、ご存じですか
フリーセンに、王宮の馬車は来なかった。
来たのは、紋章を布で覆った一頭立ての軽い馬車だった。御者は王宮の制服を着ておらず、降り立った男も外套の前を深く合わせていた。だが、外套の裾から覗いた長靴の縫いは、街の革職人のものではなかった。
帳場の窓から、ニコがそれを見ていた。
「レオノーラさん。お忍びってやつ、ですかね。やけに上等な馬で来た割に、看板を隠してるっす」
レオノーラは帳面から目を上げなかった。
「隠したいものがある人ほど、隠し方に金がかかる」
彼女は羽根ペンを置いた。(王宮の使い。それも、表に出せない格の)
通された男は、王宮の侍従長補佐と名乗った。前話の密使より、半段上の格だった。彼は卓を挟んで腰を下ろすと、しばらく言葉を選んでいた。
「アーレンス公爵令嬢」
彼はその呼び名を、わざわざ使った。「もはや、令嬢ではあられぬことは存じております。ですが、わたくしどもは、その名でしかあなたをお呼びできませぬ」
レオノーラは黙って続きを待った。
「殿下が……ロデリック殿下が、お望みでございます。あなたに、戻ってきていただきたいと」
補佐は卓に両手を置いた。「外務卿の名は、そのままで構いませぬ。地位も、待遇も、望まれるままに。ただ、王国の外交に、もう一度お力を貸していただきたい。これは、殿下ご自身のお言葉でございます」
頭が、下がった。
卓の向こうで、王宮の侍従長補佐が、亡命同然に出ていった一人の娘へ、深く頭を下げた。それは儀礼の礼ではなかった。役目を捨てた礼だった。
ニコが息を呑むのが、背後で分かった。
レオノーラは取り乱さなかった。勝ち誇りもしなかった。彼女は下げられた頭を、ただ静かに見ていた。半月前、彼女が卓に綴りを置いたとき、誰も頭を下げなかった。あのとき笑った者たちが、いま、頭の下げ方を覚えていた。
(遅い、とは言わない。順番が、来ただけ)
「お顔を、お上げください」
彼女は言った。声は平らだった。「下げられた頭に、私から申し上げられることは、一つだけです」
補佐が顔を上げた。希望が、その目にあった。
間。
レオノーラは、その目を見て言った。
「私は戻りません」
間。
「ですが、卓の向こう側でなら、お話しできます」
補佐の表情が、ゆっくりと崩れた。意味が、すぐには届かなかったらしい。
「卓の……向こう側、と申されますと」
「フリーセンの卓です」
彼女は窓の外、両替商の看板が並ぶ通りを示した。「ここは中立の都市。どの国の使者も、商人も、同じ卓に着けます。リーゼン王国が席を取りたいと望まれるなら、私は仲介の側として、向かいに座りましょう。報酬は、纏まった案件の利の二割。纏まらなければ、一銭もいただきません」
「それは……雇われる、ということではございませぬか。一国の外交を、外の者に」
「左様です」
補佐は言葉を失った。彼の中では、それは屈辱に近かった。王国の外交を、城を出た娘の卓に持っていくということが。
レオノーラは、その沈黙を待たなかった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
彼女は静かに切り出した。「ヴェルダンへの申し入れは、どのように進めておられます」
「……宮廷より、書状を幾度も。ですが、返事が」
「返事は、来ないでしょう」
彼女は卓の上で指を組んだ。「ヴェルダンの宮廷に頭を下げるには、作法がございます。灰緑の茶、座らせる向き――そのひとつを違えれば、書状は届いても、卓には着けません」
「茶や、席が、外交に……」
「外交です」
レオノーラは言葉を切った。そして、ごく静かに続けた。
「失礼ながら――王宮は、頭の下げ方を、ご存じですか」
補佐が、目を見開いた。
「いま、あなたは私に頭を下げられました。下げ方を、ご存じでした。けれど、ヴェルダンに頭を下げる作法を、王宮の誰かがご存じでしょうか。どの茶を出し、どの席に座らせ、どの言葉で詫びれば、相手が卓に着いてくれるか」
彼女は責めなかった。声を荒らげもしなかった。事実だけを、卓に並べた。
「頭は、心があれば下がります。けれど、相手に通じる頭の下げ方は、覚えなければ知れません。王国は、それを覚えてこなかった。覚える必要を、感じてこなかった。なぜなら――」
(私が、その代わりをしていたから)
彼女は、その先を言わなかった。言えば、自慢になる。事実は、自慢にしてはならなかった。
「書状が返らぬのは、相手が無礼だからではありません。こちらの頭の下げ方が、向こうに頭と見えていないからです」
補佐は、しばらく動けなかった。
彼はようやく、自分が何を失ったのかの輪郭に触れた。失ったのは、有能な担当者ではなかった。頭の下げ方そのものだった。
*
王宮、ロデリックの私室。
報告は、その日の夜に届いた。
ロデリックは窓辺に立ったまま、補佐の言葉を最後まで聞いた。戻らない。だが、卓の向こう側でなら話せる。
「卓の、向こう側」
彼はその言葉を、口の中で繰り返した。
半月前、彼は彼女を冷たいと言った。火種を消した彼女の手際を、情の薄さだと思った。あのとき、彼の卓の隣には、いつも彼女がいた。難しい使節が来れば、隣でひとこと囁いてくれた。署名の前に、目で頷いてくれた。彼はそれを、当たり前だと思っていた。隣にいるのが、当たり前だと。
いま、隣は空いていた。
「助かったよ、レオ――」
言いかけて、彼は口を噤んだ。礼を言う相手は、もうそこにいなかった。言葉の半分が、空に残った。
(私は、彼女の何を見ていたのだろう)
胸の底で、何かが遅れて軋んだ。それは喪失の痛みに似ていたが、それより質が悪かった。失って初めて、自分がどれだけ凭れていたかを知る痛みだった。彼は外交が苦手だった。その自覚はあった。だが、苦手な自分を支えていたものの名を、彼はいままで知らずにいた。
「卓の向こう側で、なら」
ロデリックは、窓の外の闇を見た。「……それでも、話せると、言ってくれたのか」
それは拒絶の言葉だった。同時に、ただ一つ残された道でもあった。
*
フリーセン、ロート商会の帳場。
補佐の馬車が、紋章を布で覆ったまま北へ去っていった。
ニコが、まだ呆けた顔で言った。
「レオノーラさん。あれ……断ったんすよね。戻ってこい、って向こうが頭まで下げたのに」
「戻る、と言えば、また同じ卓に座ることになる。下げる側と、下げられる側の卓に」
レオノーラは帳面を閉じた。「向かいに座れば、対等です。対等な卓でなければ、王国のためにも、なりません」
「でも、向こうはこれから、どうするんすかね。ヴェルダンに頭も下げられないって話なら」
レオノーラは答えなかった。
答えは、もう見えていた。王国が頼れる頭の下げ方は、いまや一つしか残っていない。卓の向こう側に座った、城を出た娘の作法だけが。中立のフリーセンを仲介に立てる――その案以外に、王国の取れる道は、もうなかった。
彼女は窓の外を見た。北の空が、薄く曇り始めていた。
戻らない、と彼女は言いました。けれど、扉を閉じたわけではありません。卓の向こう側という、ただ一つ残された席を、王宮はこれから選ばねばなりません。
次話、王国はついに「中立を仲介に立てる」道へ動き出します。頭を下げる相手は、もう決まっているのかもしれません。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。ブックマークと評価が、次話を書く灯りになります。




