第14話 卓の、向こう側
ロート商会の帳場に、見慣れぬ仕立ての外套が立っていた。
布は上等だった。けれど旅の埃をきちんと払い、襟の留め具を一段だけ外している。長旅のあとに身なりを整え直してきた者の、その手間が見えた。男はレオノーラの前で浅く頭を下げ、名乗った。
「ヴァレリウス・ドーンと申します。リーゼン王宮、王太子殿下の側近にございます」
レオノーラは帳面を閉じ、客のための椅子を目で示した。
「フリーセンへは、長い道のりでしたでしょう」
「は。――ロート商会の渉外どのに、と聞いてまいりました」
彼は西の窓を背に座ろうとして、ふと止まり、座り直した。窓を背にする席。レオノーラは何も言わなかった。(作法を、誰かに仕込まれてきた。――手順書の、四十二頁から)
ニコが灰緑を運んできて、一煎目を静かに捨て、二煎目を客の前に置いた。ヴァレリウスはそれを先に口へ運び、わずかに目をみはった。
「……正しい、出し方だ」
「フリーセンには、各国の客が来ますので」
レオノーラは自分の茶には手をつけず、相手が飲み終えるのを待った。
「単刀直入に申し上げます」
ヴァレリウスは碗を置いた。「王宮は、いま、ヴェルダンとの更新の件で立ち往生しております。手順は、ある。けれど、手順を動かせる者がおりません」
「存じております」
「殿下は――」
彼はそこで言葉を選んだ。「殿下は、あなたに、非公式に助言を仰ぎたいと。表向きの職に戻すという話ではなく、あくまで、内々に」
帳場が静かになった。運河の水音が、石の壁の向こうで低く鳴っていた。
「非公式に、と仰せでしたね」
「は。むろん、相応の謝礼は」
ヴァレリウスの声に、低姿勢の下から別の温度が混じった。それは頼みというより、確認に近かった。困れば戻る。戻るのが筋だ。そういう前提が、彼の背筋にまだ残っていた。
「ヴァレリウス殿」
レオノーラは膝の上で手を重ねた。
「王宮の職に戻る話を、まずお断りいたします。婚約の件についても、申し上げることはございません。あれは、終わった卓です」
「……では」
「ですが」
彼女はそこで、ひと呼吸置いた。
「ここフリーセンの、ヴェルナー・ロート商会の渉外として――一人の私人として、商会の利に適う範囲でなら、お話を伺います」
「私人、として」
「王国の臣ではなく、商会の者として、ということです。あなたの王宮と、対等の卓に着くという意味でもございます」
ヴァレリウスの眉が、わずかに動いた。
「対等、と」
「助言は、賜るものではございません。買うものです。買う側と売る側は、卓の同じ高さに着きます」
彼はしばらく、その言葉の角を確かめるように黙っていた。戻ってくるのが当然、という前提が、卓の上で静かに崩されていくのを、彼自身はまだ正確には掴めていなかった。掴めないまま、不快ではないことだけが先に伝わってきた。
彼が王宮を発つとき、殿下はこう仰せだった。困っていると伝えれば、あの女はきっと戻る、と。ヴァレリウスもそれを疑わなかった。戻る場所を用意してやれば、人は戻る。それが当然だと、彼は思っていた。
いま、その当然が、目の前で別の形をとり始めていた。
「条件を、伺っても」
「纏まった案件の、利の二割。纏まらなければ、一銭もいただきません」
レオノーラは続けた。「ただし此度は、利の出る案件ではございません。失えば失効する条約を、繋ぎとめるだけのお話。利ではなく、損を防ぐ仕事です」
「では、報酬は」
「それは――」
彼女は言葉を切り、帳場の奥へ目をやった。
*
帳場の奥、帳簿を繰る音が止んでいた。
ヴェルナー・ロートは、いつから聞いていたのか、太い指で算盤の珠を一つだけ弾いて、こちらへ歩いてきた。
「で、いくらの話だ?」
老商人は客の正面に立ち、値踏みするように外套の仕立てを眺めた。
「失礼。商会の主だ。うちの渉外を借りるなら、貸す側にも言い分がある」
ヴァレリウスは立ち上がろうとして、ヴェルナーに手で制された。
「楽にしなさい。立って話す商売はろくなもんじゃない」
ヴェルナーは椅子を引き、腰を下ろした。
「あんたの王宮の困りごとは、よく分かった。ヴェルダンに話を通せる者がいない。――だがな、それはあんたの国だけの困りごとじゃない」
「と、申されますと」
「フリーセンは城壁を持たん町だ。代わりに、誰とでも話せる卓を持っている」
彼は指で卓の表面を、とん、と叩いた。
「リーゼンとヴェルダンの間に、中立の町が一枚噛む。これは王宮にとっては面目の立つ筋書きだ。属国扱いされずに、話だけ運べる。――そして、うちの商会にとっては」
「商機、ということですか」
「両国の使節がこの町を通れば、茶も布も、宿も両替も金が落ちる。悪い話じゃない」
ヴァレリウスは、王宮の困窮が、見知らぬ商人の算盤の上で別の数字に書き換えられていくのを見ていた。困りごとを持ち込んだはずが、いつのまにか、その困りごとを売りに来た者の顔をさせられている。
「あなた方は、王宮の窮地を、商いに……」
「窮地は、誰かにとっては商いだ。いつだってな」
ヴェルナーは悪びれもしなかった。「だが安心しなさい。筋は通す。うちの渉外が引き受けると言うなら、それはあんたの国を救う筋でもある。利と義が同じ向きを向いてる、珍しい卓だ」
レオノーラは、二人のやりとりを黙って聞いていた。
(この方は、王国の窮地そのものを、商会の値打ちに変えるおつもりだ)
ヴェルナーの思惑が、卓の下でもう一枚、別の絵を描いている。彼女はそれに気づいていたが、いまは指摘しなかった。
「ヴァレリウス殿」
レオノーラは静かに言った。「報酬の額は、商会の主とお決めください。私が申し上げるのは、別のことです」
「別の、こと」
「この件、ご助言を差し上げられるのは、おそらく私だけでございます」
それは誇りではなく、ただの事実として置かれた。
「ヴェルダンの誰に、どの順で、何の茶で話を通すか。それを知る者は、いま、この卓の上にしかおりません。王宮にも、メーアにも、サヴァルにも、おりません」
ヴァレリウスは、その言葉の重さを、半分だけ理解した。半分は、まだ理解したくなかった。失われたものが、戻らない場所に座っているという事実を。
*
日が傾き、運河の面が灰緑に染まった。
ヴァレリウスが王宮への帰路の段取りを商会の者と詰めている間、レオノーラは帳面を開き直していた。
そこに記されていくのは、王宮の議題だった。けれど卓の側が、変わっていた。彼女はもう、王宮の駒として動くのではない。フリーセンの卓の、向こう側から関わる。
ニコが空の碗を下げながら、小声で訊いた。
「レオノーラさん。これ、引き受けるんすか。あんなふうに頭下げられて」
「頭を下げに来たのではありません」
レオノーラは羽根ペンの先を改めた。
「あの方は、確かめに来たのです。――私がまだ、王宮のものかどうかを」
「で、答えは」
「卓の、向こう側です」
王宮の問題が、いま、フリーセンの卓に載った。
席は、もう同じ高さに着いていた。
王宮が動かせなかった一枚の頁が、海を越えて別の卓の上で開かれます。彼女が着くのは、もう「戻る席」ではありません。
次話、王宮はついに、城を出た娘へ深く頭を下げます。けれど彼女が返す答えは、「戻る」ではありません。続きを楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。ブックマーク・評価が、次の一話を書く力になります。




