第13話 使われなかった鍵
王宮の評定の間に、開かれた綴りが一冊だけ置かれていた。
四十二頁。罫の隅まで字で埋まったその頁を、外務卿ガルムと書記官たちが取り囲んでいた。手順は、もう何度も読んだ。誰に、いつ、何の形で申し入れるか。すべてそこに書いてある。書いてあるのに、誰も最初の一手を指せずにいた。
若い書記が、おそるおそる口を開いた。
「閣下。手順のはじめに、こうございます。『更新の申し入れは、まず使節の卓を経るべし。卓を経ずして文を送るは、門を叩かず壁を越えるに等し』と」
「卓を経る、とは」
「は……それが、書かれておりませぬ。どの卓を、誰の卓を、とは」
ガルムは頁を睨んだ。手順の一行ごとに、その先がある気配がした。だがその気配の先は、頁の外にあった。
「窓を背にする席。一煎目は供さぬ。灰緑の茶」
彼は声に出して読み上げた。読み上げても、意味は近づいてこなかった。
「これは儀礼でございます」
年かさの書記官が、ようやく言った。「ヴェルダンの宮廷には、申し入れを聞く前に、まず使節がこちらの作法を見定める習いがあると、私も古い記録で読んだことが。作法を違えた相手の文は――そもそも、開かぬそうにございます」
「開かぬ、だと」
「席に着く前に、座らせ方を見られている、と。座らせ方ひとつで、こちらの誠意を量られる」
ガルムは黙った。
手順という鍵は、確かに手の中にある。だがその鍵を回すには、鍵穴の前まで歩く作法が要った。ヴェルダンの卓に座るための、座り方が要った。そしてその座り方は、この四十二頁のどこにも――書く必要のない者にだけ宛てて書かれていたから――記されていなかった。
「ロデリック殿下には」
「お伝えするな」
ガルムは即座に遮った。間に合わぬと知れれば、自分の首が先に飛ぶ。
「非公式に運ぶ。表の手順が組めぬなら、裏から人を通すまでだ」
書記官たちが顔を見合わせた。
「裏、と申しますと」
「ヴェルダンに、つてのある商人がいよう。商人なら、宮廷の誰かに渡りをつけられる。使者を一人、急ぎ立てよ。条約の更新を望む旨、内々に伝えさせる」
手順は読めずとも、人を走らせることはできた。少なくとも、止まっているよりはましだ――ガルムはそう、自分に言い聞かせた。
*
使者は十日で戻った。
顔色が悪かった。
「申し上げます。ヴェルダンの宮廷に、商人を介して内意を伝えましてございます。ですが――」
「ですが、何だ」
「先方は、たいそうご立腹で」
ガルムの指が止まった。
「使者の口上が、作法に外れていたと。『リーゼンより条約更新の儀、内々にお取り計らいを』と、そう申し述べたところ――」
「それの、どこが」
「『内々に』と、こちらから申すのが侮りだそうにございます。ヴェルダンでは、申し入れは表から、卓を経て行うのが筋。それを商人の口を借りて裏から運んだことが、宮廷を軽んじた振る舞いと取られ……間に立った商人まで、出入りを止められたと」
評定の間が、静まり返った。
「商人が、出入りを」
「は。あの商人は、ヴェルダン宮廷に通じる数少ない一人でございました。それが、今度の一件で道を断たれ……もう、こちらの話は二度と取り次がぬ、と」
ガルムは椅子の背に体を預けた。
非公式の使者を立てて、開きかけていた道を一つ、自らの手で潰した。座る作法を知らぬまま卓に近づこうとして、その卓ごと遠ざけてしまった。鍵を回そうと焦って、鍵穴を壊したのだ。
誰も、責める言葉を口にしなかった。手順の頁だけが、卓の上で西日に焼かれていた。
「……他に、ヴェルダンに通じる商人は」
「探しておりますが、あの一人ほど深く通じた者は、なかなか」
ガルムは目を閉じた。
外交は人の心でするもの、と半年前に言った。いま、その人の心を一つ怒らせて、退路を狭めたのは、ほかならぬ自分だった。
*
フリーセン。ロート商会の二階。
レオノーラは、商況の便りの中から一通を抜き出して、卓に伏せた。
「ヴェルダンの宮廷が、リーゼンの使者に立腹したそうよ」
ニコが目を丸くした。
「もう、そこまで届いてるんすか。早いっすね」
「商人が一人、ヴェルダン宮廷の出入りを止められた。その商人は、これまで何度もリーゼンの荷を扱っていた人。彼の出入り停止は、すぐに市場の値に出る。値が動けば、噂も動くわ」
彼女は淡々と言った。責める色も、嗤う色もなかった。ただ、駒の動いた跡を読むように。
「裏から運んだのね。卓を経ずに」
(席に着く作法を、知らぬまま座ろうとした)
「あの……レオノーラさん」
ニコが、いつもより慎重に尋ねた。
「ヴェルダンの卓って、そんなに難しいんすか。座るだけでしょう」
「座るだけ。でも、座る順がある」
レオノーラは便りの束を揃えた。
「まず、こちらの誰がヴェルダンの誰に話を通すか。話を通す順を一段でも飛ばせば、文は届いても開かれない。次に、卓の席次。窓を背にする席を相手に譲るのが敬意。それを違えれば、座る前に交渉は終わる。茶もそう。灰緑を、一煎目を捨てて供す。それが、申し入れを聞いてもよいという、向こうからの合図になる」
「合図……」
「合図が出るまでは、何を言っても、向こうは聞いていないことになっているの。聞いていないことにできる作法、と言ってもいい」
ニコは、しばらく考え込んだ。
「それ全部、どこに書いてあるんすか」
レオノーラは、答えなかった。
(どこにも書いていない。書く必要が、なかったから)
その段取りの全体――誰を通し、どの席に座らせ、どの茶を、どの順で供すか。その一連を、頭から終いまで澱みなく辿れる者は、この大陸に、おそらく一人しかいなかった。
手順書は、王宮にある。四十二頁、卓の上に開かれている。鍵は、向こうの手の中にある。
ただ、その鍵を回す手つきだけが、この街にいた。
レオノーラは窓の外を見た。フリーセンの空に、商船の帆が並んでいた。
(あちらが躓くのは、次は――席次。窓の向き)
彼女には、王宮がどこで足を取られるかが、はじめから見えていた。見えていて、何も言わなかった。言う筋合いが、まだなかった。
*
王宮の評定の間。
夜が更けても、灯りは消えなかった。ガルムは、誰もいなくなった部屋で、ひとり四十二頁を繰っていた。
手順は読める。一行ずつ、字面は追える。だが追うほどに、その一行ごとの裏側に、書かれていない作法が層をなしているのが分かった。鍵の先に、また鍵があった。
彼は、ふと手を止めた。
この頁を書いた者は、これらの作法をすべて頭の中に持っていた。手順も、その理由も、頁には記してある。だが、何を侮辱と取り何を礼と取るかを読む手つきだけは、書きようがなかった。書く必要がなかった。頁の外に、書き手その人が立っていたからだ。
その書き手は、いま、フリーセンにいる。
ガルムは長く息を吐いた。口にすれば負けだと、半年前から分かっていた一言を、彼はまだ口にできずにいた。だが、頁の外に立つその人物を通さずに、この鍵が回らぬことだけは――もう、認めるしかなくなっていた。
窓の外で、王宮の旗が夜風に鳴っていた。
手順という鍵は、王宮の手にありました。けれど、その鍵を回す作法だけが、城を出ていった一人の頭の中にしかなかった――王宮は、ようやくその扉の前で立ち尽くしています。
次話、王宮は重い一歩を踏み出します。フリーセンを経て、あの人へ。どうかその瞬間を、ブックマーク・評価で見届けてください。




