第12話 期限まで、三十日
王宮の書庫で、一冊の暦が机に広げられていた。
ガルム伯爵は、先王の代から続く外交記録の頁を、文官に読み上げさせていた。各国との取り決めの結ばれた日と、その効力の続く年限。羊皮紙はどれも古く、墨は褪せかけている。
「ヴェルダンとの平和条約。締結は、二十五年前の春」
文官が、指で頁の端をなぞった。
「効力は二十五年。更新の手続きを踏まねば、効力は自動で失われる、と」
「いつだ」
「来月の、晦日までに更新の意を伝え、儀礼に則って卓に着かねばなりません。それを過ぎれば――」
文官は言葉を切った。
「条約は、破棄ではなく、失効へ向かいます」
ガルムは暦から目を上げた。窓の外で、王宮の旗が鳴っている。
「来月の晦日まで、あと何日ある」
「三十日でございます」
三十日。その数を、ガルムは口の中で繰り返した。一月にも満たない。
卓の隅には、ようやく書庫の奥から掘り出された分厚い綴りが置かれていた。前任が遺した引き継ぎ書。四十二頁に、更新の手順がすべて記されているという。
ガルムは、その四十二頁を開いた。
そこには、淀みのない筆跡で段取りが並んでいた。更新の意を伝える書状の文面。届ける順序。そして――卓に着く前に踏まねばならない、ヴェルダンの儀礼の作法。茶の出し方、座らせる向き、煎じ直しのしるし。条のひとつひとつに、なぜそうするのかの理由まで添えてある。
手順は、すべてここにある。
「……書いてあるではないか」
ガルムは、思わずそう漏らした。
だが、文官は顔を上げなかった。書いてあることと、踏めることは、別の業だ。この一月、王宮を訪れた使節は一人もいない。ヴェルダンへ書状を届けようにも、向こうの作法をひとつ違えれば、それだけで侮辱になる。誰が、どの作法で、どう運ぶのか。
頁の上に、答えはある。それを動かす手が、王宮にはなかった。
「殿下に、お伝えせねば」
ガルムは綴りを閉じた。指先が、わずかに冷たくなっていた。
四十二頁を鼻で笑った日のことを、彼はもう思い出さないようにしていた。だが頁は、笑われたことなど覚えていないかのように、ただ静かに正しい手順を記していた。それが、いちばん応えた。
*
同じころ、フリーセン。
ロート商会の二階に、夕刻の客があった。ヴェルダンの絹を扱う商人で、名をクラウスといった。レオノーラが先月、北方産の灰緑の茶を一包み融通してやって以来、彼はときおりこの卓に寄るようになっていた。
「アーレンス様。先だっての茶、本国の同業に分けたところ、たいそう喜ばれました」
「お役に立てたなら」
レオノーラは茶器を二つ用意し、自分の分には手をつけず、客の前にだけ置いた。ヴェルダンの作法だ。クラウスは、その所作にわずかに目を細めた。
「あなたは、本当に我が国の流儀をご存じだ」
「条文の裏に、流儀があるだけです」
クラウスは茶を一口含み、それから声を落とした。世間話の続きのように。
「ひとつ、奇妙な噂を耳にしました。本国の、商いの寄合で出た話です」
「噂は、商いの種ですね」
「ええ。――リーゼン王国との、古い平和条約。あれの更新が、近いそうですな」
レオノーラは、茶器の縁を見ていた。表情は変わらない。
「本国の上の方々が、その更新を、ずいぶん心待ちにしておられるとか」
「更新を、ですか」
「妙でしょう。普通、条約の更新など、形だけのもの。判を押し直すだけの退屈な儀式です。それを、本国がわざわざ待っている」
クラウスは茶器を置いた。
「商人の勘では――あれは、心待ちにしているのではない。待ち構えているのです」
(待ち構えている)
レオノーラは、内心で短く写した。
「私のような者には、政の裏は分かりません。ただ」
クラウスは声をいっそう低めた。
「本国は、この更新を“盾”にするつもりだ、という話でした。更新の卓で、これまでになかった条件を並べ、リーゼンに呑ませる。呑まねば、卓を立つ。期限は向こうから迫ってくる。断れば、条約そのものが失効する」
「……つまり、更新を人質に」
「言葉を選ばずに言えば、そうなります」
クラウスは肩をすくめ、自分の言葉の重さを薄めるように笑った。
「もっとも、商人の寄合話です。本気になさいますな」
彼が灰緑の礼を重ねて去ったあと、卓には茶の香りだけが薄く残った。
ニコが戸口から入ってきて、二つの茶器を見比べた。
「レオノーラさん。あの商人さん、何か……重い話、してませんでした?」
「商いの噂よ」
「噂、っすか」
レオノーラは、客の飲み残した茶器を静かに脇へ寄せた。
「でもニコ。噂というのは、本当のことの、いちばん早い形で届くものなの」
ニコは首をかしげた。
「ヴェルダンが、条約の更新を、ただの手続きとは考えていない。それだけは、覚えておいて」
*
イレーネが葡萄酒を片手に階段を上がってきたのは、灯りが点りはじめたころだった。
「聞いたよ。リーゼンの王宮が、来月の条約とやらで、てんやわんやだって」
「市場にまで届いているの」
「あんた、市場をなめてもらっちゃ困るね。両替商の看板の下じゃ、王様の寝言まで値がつくのさ」
イレーネは瓶を卓に置き、椅子を引いた。
「で、ヴェルダンが何やら不穏らしいって話も流れてる。あの誇り高い連中が、急に愛想よくリーゼンに更新を持ちかけてるって。――はっ、こう言っちゃなんだけど、いい気味だ、とは言わないけどさ」
「言っているわ」
「言ってないよ」
イレーネは葡萄酒を注ぎ、ふと真顔になった。
「けどさ。あんた、これ、ただの判の押し直しじゃないって顔してるね」
レオノーラは答えなかった。代わりに、窓の外へ目をやった。フリーセンの灯りが、運河の水面に細く伸びている。
(更新の卓に、ヴェルダンの儀礼が絡む)
彼女だけが知っている。条約を更新するには、まず相手国の作法に則って卓に着かねばならない。茶の出し方ひとつ、座る向きひとつを違えれば、ヴェルダンは「侮辱された」という名目を得る。そして、侮辱を口実に、条件を吊り上げる。
もし向こうが最初からそれを狙っているなら――作法を知らぬ王宮は、卓に着いた瞬間、すでに罠の内側にいる。
四十二頁を読まぬまま卓に出れば、リーゼンは何ひとつ気づかぬうちに、不利な条件を呑まされる。条約は更新される。だが、それは更新の形をした、従属の証文になる。
(手順を知る、というのは)
レオノーラは、手帳を一頁だけ開いた。
(守るためだけのものでは、なかったのね)
同じ手順が、攻める側の武器にもなる。ヴェルダンの誰かが、それを知っている。リーゼンの外交が、たった一人の頭に紐づいていたことを――その一人が、もういないことを。
「ねえ」
イレーネが葡萄酒の杯越しに、こちらを見ていた。
「あんた、今、ちょっと面倒くさそうな顔をしたね」
「いいえ」
レオノーラは手帳を閉じた。
「ただ、来月の晦日が、思っていたより重い日になりそうだ、と」
窓の外で、商人たちの荷車が最後の一台を運び終え、フリーセンの一日が静かに畳まれていく。
王宮には、手順を記した四十二頁がある。それを踏む手はない。
ヴェルダンには、その手順を逆さに使う策がある。
そしてレオノーラの手帳には、両方が、すでに書き込まれていた。
来月の晦日まで、三十日。判を押し直すだけの退屈な儀式が、どうやら、そうではないらしい――と、海の向こうから不穏な風が吹いてきました。
手順を知るレオノーラは、まだ王宮の外にいます。三十日の砂は、誰の手のひらからこぼれていくのか。
次話、王宮はいよいよ、最後に頼れる相手の名を思い出します。ブックマーク・評価で見守っていただけると、次の卓がいっそう励みになります。それでは、次の卓で。




