第16話 仲介人
ロート商会の帳場に、北からの一報が届いたのは、霧の濃い朝だった。
ヴェルダンが、フリーセンの仲介を受ける――その一言だけの短い書状を、ニコが息を切らせて運んできた。封蝋は商人筋のもので、王宮のものではなかった。
「レオノーラさん。ヴェルダンが、卓に着くってことっすか」
レオノーラは書状を一度だけ読み、卓に置いた。
「着く、とは書いていません。聞いてもよい、と書いてあるだけ」
彼女は羽根ペンの先を改めた。(一煎目は、まだ捨てられたばかり。供されてはいない)
フリーセンは、城壁を持たない町だ。だからこそ、どの国の旗も立てない。レオノーラがこれから組むのは、リーゼンの代理人としての段取りではなかった。中立の卓の、その卓を据える側の段取りだった。
「ニコ。手紙を二通。一通はヴェルダンの宿割を差配する組合へ、もう一通はクラウス殿へ」
「絹屋のクラウスさんっすか。なんでまた」
「ヴェルダンの使者が誰になるか。それを、宮廷の触れより先に知りたいので」
ニコが頷いて駆け出していった。
レオノーラは窓の外、両替商の看板が並ぶ通りを見た。リーゼンの困窮は、まだ北の空の下にある。けれどこの卓に載った以上、彼女が見るのは王国の面目ではない。両国を同じ高さの卓に着けること、ただそれだけだった。
(私は、王国の側には座らない。卓の、真ん中に立つ)
*
ヴェルダンの使者の名は、三日後に届いた。
オズワルド・カイ。半年前、王宮の卓で席次の火種になりかけた、あの大使だった。クラウスがもたらした絹の荷の便りに、その名が一行だけ添えられていた。
「あのおっさん、また来るんすか」
ニコが顔をしかめた。「レオノーラさんが席を直してやった、あの」
「直してやった、とは言いません。火種を消しただけ」
レオノーラは灰緑の茶葉を、いつもより念入りに選り分けていた。「オズワルド殿は、覚えておられるでしょう。あの卓で、それをしたのが誰だったかを」
「覚えてたら、やりにくくないっすか」
「やりやすい、と申し上げてもいい」
彼女は茶葉を量る手を止めなかった。「相手が私を知っているなら、こけおどしは使えません。残るのは、本当の用件だけです」
オズワルドがフリーセンに入ったのは、その翌週だった。
彼は宿に荷を解くより先に、ロート商会の帳場へ顔を出した。それ自体が、一つの手だった。先に乗り込み、卓の主導を握ってみせる。窓を背にする席を、彼は勧められる前に自分で選んで腰を下ろした。作法を知る者の座り方だった。
「久しいな、アーレンス公爵令嬢」
オズワルドは碗の二煎目を先に口へ運び、満足げに頷いた。「茶の出し方だけは、王宮より町のほうが心得ている。これは皮肉ではない。事実だ」
「フリーセンには、各国の客が参りますので」
レオノーラは自分の茶に手をつけず、相手が碗を置くのを待った。
「さて」
オズワルドは碗を置いた。「貴国は――いや、貴女が仲介に立つというリーゼン王国は、更新を望んでおられる。二十五年の条約が、来月の晦日で切れる。あと、三十日もない」
「更新の手順は、こちらに」
「手順は知っている」
オズワルドは遮った。声に、刃のような余裕があった。「問題は手順ではない。中身だ。我がヴェルダンが、なぜ同じ文面で更新してやらねばならぬ。二十五年前と、今とでは、両国の重さが違う」
来た、とレオノーラは思った。(吹っかける気だ)
「我が国が更新に応じる代わりに、いくつか改めていただきたい条がある」
オズワルドは指を一本ずつ立てていった。「一つ。国境を越える毛織物の関税を、現行の三分の一に。一つ。北の係争地――あの二つの村の徴税権を、ヴェルダンへ。一つ、更新の調印は王都ではなく、ヴェルダンの宮廷で行う」
ニコが帳場の隅で息を呑んだ。関税を三分の一。係争地の徴税権。調印の地まで。どれ一つとっても、王国が易々と呑める額ではなかった。
「ずいぶんと、重い」
レオノーラの声は平らだった。
「重い、とも。だが正当だ」
オズワルドは肩をすくめた。「貴国は、いま外交を動かせる者がいない。書状を送っても返事を書ける者がいない。卓に着く作法も知らぬ。――そういう国が、二十五年前と同じ重さの卓を望むのは、虫がよすぎはせぬか」
彼は、王国の足元をすでに知っていた。属人化した外交が、その人を失って立ち往生していることを。弱みを正確に見て、その上に値を積んでいた。
レオノーラは取り乱さなかった。怒りもしなかった。彼女は立てられた三本の指を、ただ静かに数えていた。
(関税。徴税権。調印の地。――三つとも、重すぎる)
重すぎる、という感触が、彼女の中で別の問いに変わった。
なぜ、三つとも、王国に呑めない重さなのか。
(呑めない額を、わざと並べた?)
商いの卓では、相手が本気で取りに来た要求と、決裂の口実に置いた要求とでは、置き方が違う。本気のものは一つに絞る。決裂を狙うものは、束で重ねる。呑めぬ束を積めば、断ったのは向こうだ、という形が作れる。
「オズワルド殿。一つ、伺っても」
レオノーラは指を組んだ。「この三条、すべてを通すこと。それが、本国のご意向ですか」
「無論だ」
オズワルドは即答した。だが、その即答に、わずかに早すぎる滑らかさがあった。用意された答えを、そのまま置いた者の口調だった。
(……即答が、速すぎる。考えてから言う額ではない。最初から、そう言えと言われてきた額)
レオノーラは内心で、もう一手、駒を進めた。
本国――宰相ファルク。その名はまだ卓に出ていない。けれどオズワルドの強気の裏に、別の手が回っている気配があった。この大使は、自分の判断で値を積んでいるのではない。積めと言われた束を、言われた通りに積んでいる。
「ご意向は、承りました」
レオノーラは静かに言った。「持ち帰り、リーゼンへ伝えます。返答には、数日いただきます」
「数日も待つほど、時はあるまい」
オズワルドが薄く笑った。「あと三十日。手間取れば、条約はひとりでに切れる。切れて困るのは、どちらかな」
「切れて困るのは、両国です」
彼女は即座に返した。「ヴェルダンとて、北の交易路を一度に閉ざせば、損が出ます。困るのが片方だけなら、こうして使者を立てては来られない」
オズワルドの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
彼は碗を置き、立ち上がった。
「……話の通じる相手は、嫌いではない。返答を待とう」
*
オズワルドが宿へ戻ったあと、帳場には茶の香りだけが残った。
「レオノーラさん」
ニコが、まだ呑まれた顔のまま訊いた。「あれ、全部呑めって話っすよね。関税も、村も、調印の場所まで。リーゼン、終わりじゃないっすか」
「呑めば、終わります」
レオノーラは冷めた茶を、ようやく一口だけ含んだ。
「ですが、あの方は、呑ませる気がない」
「……は?」
ニコが目を丸くした。「呑ませる気がないのに、要求してきたんすか」
「三つとも、わざと呑めぬ重さに積んでありました」
レオノーラは指を三本立て、それを一本ずつ折っていった。「呑めぬ束を並べて、断らせる。断ったのはリーゼンだ、という形を作る。そして条約は、更新されないまま切れる」
「切れたら、どうなるんすか」
「切れた瞬間、両国は条約のない隣国に戻ります。そこから先、ヴェルダンが差し出してくるのは――更新ではなく、もっと不利な、別の取り決めでしょう」
彼女は折った指を見た。「対等な国どうしの条約ではなく、強い国に従う側の取り決め。従属の契約です」
ニコの顔から血の気が引いた。
「じゃあ、あのおっさんは、最初から更新する気なんか」
「ない、のかもしれません」
レオノーラは窓の外を見た。北の空は、まだ薄く曇っている。
「更新を望んでいるのは、リーゼンだけ。ヴェルダンが望んでいるのは、更新を逃させることそのもの。――もしそうなら、私が組むべきは、要求への返答ではありません」
「じゃあ、何を」
「決裂させない卓の作り方です」
彼女は羽根ペンを取り、新しい一枚に向かった。そこに記すのは、王国の譲歩案ではなかった。オズワルドの三条が、本当はどの一条のために積まれた束なのか――その見立てだった。
束のどこかに、向こうが本気で取りに来た一つがあるはずだ。残りは、それを隠すための重し。重しを外し、本命を一つだけ卓に残せば、決裂の口実は崩れる。
(オズワルド殿の後ろに、もう一人いる。あの三条を積ませた手が)
その手の名を、彼女はまだ書かなかった。書くには、まだ一手、足りなかった。
更新の卓は、ようやく開きました。けれど相手が望んでいるのは、更新ではなく決裂なのかもしれません。三つの無理難題は、本当は何を隠しているのか。
次話、レオノーラは束のどこに本命が紛れているかを読み解きにかかります。オズワルドの背後にいる手の正体も、少しずつ。続きを楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。ブックマーク・評価が、次の一話を書く灯りになります。




