記録室を名乗る男 3
男の馬車が村を出るまで、誰も声を出さなかった。
車輪の音が遠ざかり、灰色の道に消えていく。
その後で、ミラはすぐにエリオットを見た。
「痛みは?」
「三。今ので少し四に近い」
「熱は?」
「上がった」
「座ってください」
「ああ」
エリオットは素直に従った。
村長が青ざめた顔で近づいてくる。
「すみません。守りきれず」
「いいえ。十分です」
ミラは言った。
「倉庫には近づかせませんでした」
「でも、あの男は何か気づいていましたね」
「はい」
エリオットは椅子に座りながら、低く言った。
「戻ってくるかもしれない」
「あるいは、報告を送る」
ミラの声も硬かった。
グレイル村は、もう隠れた場所ではない。
ガレス側の手も、ここまで届いた。
その夕方、ミラはネロの様子を確認しに行った。
ネロは倉庫の隅で膝を抱えていた。
顔色は悪い。右手首の黒い輪は、昼より濃く見える。
ミラが反応針を近づけると、針先は黒変した。
「また反応しています」
ネロは掠れた声で言った。
「外部の奴が来たんだろ」
ミラは目を上げた。
「見たんですか?」
「見てねえ。でも、分かる。空気が変わった」
エリオットが入口で黙って聞いている。
ネロは震える息を吐いた。
「あの雰囲気は先生の手のものじゃねぇ。まずいぞ。あんたら、先生だけじゃなく別の連中にも見つかった」
「別の連中?」
ミラが尋ねると、ネロはうつむいた。
黒い輪が脈打つ。
「俺らは、王都の偉い連中の名前なんか知らねぇけど、たまにいたんだ。黒い荷を運ぶ時、騎士団の印がついた書類を持ってくる奴らが。今日来たのは騎士団の仲間のほうなんじゃないのか?」
エリオットの顔が険しくなる。
「騎士団が関わっているのか」
「俺は知らねえ。俺は、運ぶだけだ。ただ……」
ネロは顔を歪めた。
「先生の連中と、騎士団の連中は、同じものを欲しがってるわけじゃねえ。なのに、同じ荷を使ってる」
ミラは息を詰めた。
敵は一枚岩ではない。
でも、同じ黒いものを共有している。
騎士団側と、ネロを動かす黒い系統。
別々の目的で、同じ禁術に手を伸ばしている。
ネロは震える声で続けた。
「さっき来たやつが騎士団の奴なら、早く逃げた方がいい。先生は見て楽しむ。でも、騎士団の連中は違う」
「何をするんですか」
「邪魔なら、消す」
倉庫の中が冷えた。
エリオットは拳を握った。
左手だけで。
「ミラ」
「はい」
「救援が来るまで、村の守り方を変える」
ミラは頷いた。
「診療区域、倉庫、封印箱。この三つを分けて守ります」
「俺は入口側にいる。だが、もしあの男が戻ってきたら、俺一人では止めきれない」
「村長さんにも協力してもらいます。村人を巻き込まない形で」
「それと」
エリオットは少しだけためらった。
「俺が出る場面を減らす。相手は俺の状態を測りに来ている。姿を見せるほど情報を与える」
「はい」
それは、彼にとって苦い判断だっただろう。
それでも、正しい。
ミラは静かに言った。
「私も前に出すぎないようにします」
エリオットは彼女を見た。
「頼む」
「……はい」
夜、グレイル村の家々はいつもより厳重に戸を閉めた。
村長は見張りを増やした。
ただし武装ではない。手に持つのは灯りと鐘。何かあれば村全体へ知らせるためだ。
ミラは診療道具を一箇所にまとめ、封印箱を白石粉の輪の内側へ置いた。
父の反応針は二本。
一つは封印箱のそば。
一つは窓辺。
エリオットは入口側の椅子に座っていた。
右腕には湿布。
左手には杖。
疲れているはずなのに、眠る気配はない。
「少し休んでください」
ミラが言うと、エリオットは静かに首を振った。
「今夜は無理だ」
「それでは腕が」
「分かっている。だから、座っているだけにする」
ミラは言い返そうとしたが、やめた。
自分も眠れる気がしなかった。
机の上の帳面を開き、今日の記録を書く。
――騎士団記録室を名乗る男が来訪。エリオットさんの状態、治療師の治療内容を探る。正式文書なし。倉庫へ接近しようとするも阻止。
――エリオットさん、短時間対応。右腕痛み三から四未満。熱上昇。
――ネロ証言。禁術派と思われる「先生」の連中と、騎士団側は目的が異なるが、黒い荷を共有している可能性。
――騎士団側、禁術派、二方向の追跡を想定。救援到着まで警戒強化。
書き終えた時、外で風が鳴った。
坑道の方からではない。
村の入口の方から。
エリオットが顔を上げた。
「馬車ではない」
「人ですか」
「分からない。だが、何かが動いている」
窓辺の反応針は、まだ澄んでいる。
黒い気配ではない。
だが、安心できるものでもなかった。
遠くで、見張りの鐘が一度だけ鳴った。
カン、と乾いた音が夜に響く。
ミラとエリオットは、同時に立ち上がった。
救援はまだ来ない。
追っ手はもう、村を知っている。
グレイル村の夜は、また新しい緊張を孕んで始まった。




