眠るための薬草茶 1
鐘の音は、一度きりだった。
カン、と乾いた音が夜の村に響き、それきり沈黙する。
ミラは反射的に鞄を掴みかけた。けれど、その手をエリオットの声が止めた。
「待て」
低く、静かな声だった。
「黒い気配ではない」
ミラは窓辺の反応針を見た。
針先は澄んでいる。
少なくとも、坑道から流れてくる黒い靄や、ネロの黒い輪のような反応ではなかった。
「人ですか」
「たぶん。村の入口の方だ」
エリオットは杖を手に、立ち上がろうとした。
ミラはすぐに言う。
「座っていてください」
「確認だけだ」
「右腕の熱が上がっています」
「足で見に行く」
「足で行っても、身体は一つです」
エリオットは一瞬黙った。
その間に、外から足音が近づいてきた。村長だった。息を切らしながら、空き家の扉の外で声をかける。
「治療師さん、エリオットさん。大丈夫です。村の外れに人影がありましたが、鐘を鳴らしたら逃げました」
ミラは扉を開ける。
「誰でしたか」
「分かりません。見張りの者が、村の入口近くの石垣の陰で動く影を見たそうです。声をかける前に逃げたと」
「黒い気配はありませんでしたか」
「見張りには分からなかったようです」
ミラはエリオットを見る。
エリオットは目を細め、外の夜へ意識を向けているようだった。
「瘴気ではない。少なくとも、坑道のものではない」
「では、昼間の騎士団記録室を名乗った人の関係者でしょうか」
「可能性はある」
エリオットの声が硬くなる。
「村の様子を探りに来たのかもしれない。診療所、倉庫、俺たちの居場所を確認するために」
村長の顔が青ざめた。
「では、追いかけますか」
「追わないでください」
ミラは即座に言った。
「夜の鉱山道は危険です。黒い粉もあります。向こうが誘っている可能性もあります」
エリオットも頷く。
「見張りは二人組に。鐘を持たせて、決して追わせない。見つけたら鳴らして、村へ戻る。それだけでいい」
「分かりました」
「倉庫の見張りも増やしてください。ただしネロさんの近くへは入らないで。入口の外で十分です」
「はい」
村長は深く頷き、また夜の中へ戻っていった。
扉を閉めると、空き家の中に重い沈黙が落ちた。
ミラは窓辺の反応針をもう一度確認した。
澄んでいる。
けれど安心はできなかった。
黒いものではない脅威も、この村へ近づいている。
エリオットは椅子へ戻ったものの、明らかに眠る気はなかった。
左手で杖を握ったまま、入口の方を見ている。
右腕は改良帯に固定されているが、手首から肘まで熱を持っている。ミラが湿布を当てたばかりなのに、すでに熱が戻り始めていた。
「エリオットさん」
「何だ」
「今夜は眠ってください」
「無理だ」
即答だった。
ミラはため息をつきたいのを堪えた。
「無理ではありません。眠る必要があります」
「今眠ったら、何かあった時に気づけない」
「あなたが倒れたら、何かあった時にもっと困ります」
エリオットは口を閉じた。
最近、ミラはこの人の反論の止め方が少し分かってきた気がする。
正論で逃げ道を塞ぐと、エリオットは意外と黙る。
「ここ数日、まともに眠れていません。右腕の熱も引ききっていません。明日も患者さんの治療があります。ネロさんの容体も確認しなければなりません。救援が来るまで持ちこたえるためには、今眠ることが必要です」
「……君も同じだ」
「私は」
「同じだ」
エリオットはミラを見た。
「君も眠れていない。食事も少ない。記録ばかり書いている」
ミラは少し言葉に詰まった。
「記録は必要です」
「睡眠も必要だ」
「……はい」
「君が倒れたら、俺も村も困る」
今度はミラが黙る番だった。
エリオットは静かに続ける。
「だから、君も眠れ」
ミラはしばらく彼を見つめた。
守るために眠る。
それは、ここ数日の二人に一番足りなかったことかもしれない。
ミラは小さく頷いた。
「分かりました。薬草茶を淹れます」
「薬草茶?」
「入眠しやすくするものです。強い眠り薬ではありません。身体の緊張を緩める薬草茶です」
エリオットの眉がわずかに動いた。
「俺に?」
「はい」
「必要ない」
「必要です」
「……君も飲むなら」
ミラは目を瞬いた。
エリオットは真顔だった。
「俺だけ飲まされるのは納得できない」
「治療上必要な判断です」
「君にも必要な判断だ」
返されてしまった。
ミラは少しだけ笑った。
「分かりました。私も飲みます」
「記録しておけ」
「もちろんです」
ついに100話目となりました!
グレイル村編も佳境に入ってきたところですね。
物語はまだまだつづきますが、ここまで読んでくださった皆さんありがとうございます!
これからも応援よろしくお願いします!




