記録室を名乗る男 2
騎士団記録室を名乗る男の馬車がグレイル村へ入ってきたのは、その日の午後だった。
馬車は一台。
御者が一人。
村へ降りてきたのは、上質な外套を着た男一人だった。
灰色の鉱山道を通ってきたはずなのに、靴の汚れは少ない。旅人というより、王都の廊下を歩き慣れた者の足元だった。
男は村長の前で礼をした。
「突然の訪問、失礼いたします。王都騎士団記録室の者です。元騎士エリオット・バーンスタン殿の療養状況について確認に参りました」
村長は、あらかじめ決めていた通りに答えた。
「この村では現在、咳と熱の症状が出ている者が複数います。外部の方を診療区域へ入れることはできません」
「私は医師ではありません。確認だけで結構です」
「患者情報は治療師さんが管理しています」
男の視線が、村長の後ろへ向いた。
ミラが立っていた。
薬草袋を持ち、首元には白花のペンダント。旅治療師らしい落ち着いた服装をしているが、その目は男から逸れなかった。
「あなたが治療師ですか」
「旅治療師のミラです」
「ミラ・コックス殿?」
男は名を出した。
ミラはわずかに息を止めかけたが、表情は変えなかった。
「患者の治療中です。症状のある区域には近づかないようお願いします」
「私はエリオット・バーンスタン殿に会いに来ました」
「エリオットさんも患者です」
「元騎士の療養状況確認は、騎士団記録室の職務です」
「正式な文書はお持ちですか」
男の目が一瞬だけ細くなった。
「口頭確認で足ります」
「患者情報を外部へ渡すには、正式な文書が必要です」
リンドルの町役場で使われた言葉と同じだった。
男はそれに気づいたのか、わずかに口元を歪めた。
「ずいぶん慎重ですね」
「症状が症状ですので」
「黒熱症状、でしたか」
ミラの胸が冷えた。
どこでその言葉を拾ったのか。
村長が口を開きかけたが、ミラが先に言った。
「似た症状です。原因は調査中です。だからこそ、外部の方を不用意に入れるわけにはいきません」
「では、エリオット殿をここへ」
「必要ありません」
低い声が、背後から落ちた。
ミラは振り返りかけ、すぐに止まった。
エリオットが空き家の入口に立っていた。
右腕は改良帯でしっかり固定され、外套の下に隠れている。左手には杖。顔色は少し悪い。だが、背筋はまっすぐだった。
男の視線が、すぐに彼の右腕へ向く。
「エリオット・バーンスタン殿ですね」
「そうだ」
「お久しぶりです」
「覚えがない」
「私は記録室の者ですので、直接の面識はないでしょう」
「なら、用件は終わりだ。私は生きている。療養中だ。それ以上、騎士団へ報告する義務はない」
静かな拒絶だった。
男は微笑む。
「右腕に回復の兆しがあると聞きました」
空気が張った。
ミラは反射的に前へ出そうになった。
その瞬間、エリオットの左手がわずかに動き、彼女の前に出た。
触れはしない。
ただ、止める位置。
「ミラ、下がっていい。これは俺への用件だ」
ミラは唇を噛み、半歩下がった。
エリオットは男を見据えた。
「噂を集めるのも記録室の仕事か」
「元騎士の状態確認です」
「私は退団した」
「将来有望な騎士でした」
「過去の話だ」
「もし復帰の可能性があるなら」
「ない」
エリオットは短く言った。
「見ての通り、右腕は使えない。杖なしでは長く立つのも難しい。療養中の者を、咳の出ている村で立たせて確認したかったなら、もう十分だろう」
男は黙った。
その目は、エリオットの顔、右腕、指先を観察していた。
ミラは気づいていた。
この男は心配しているのではない。
測っている。
どの程度動くのか。
どれほど回復しているのか。
騎士として再起できそうなのか。
エリオットもそれを分かっているのだろう。
だから、右腕を動かさない。
痛みを堪えながらも、必要以上に強くも弱くも見せない。
男はやがて視線をミラへ移した。
「あなたが彼の治療を?」
「継続観察中です」
「どのような治療を」
「患者情報です」
「治療師として、王都治療院に報告義務は?」
「私は王都治療院所属ではありません」
「魔術学校は王都でしたね」
ミラの指が、鞄の紐を握る。
「それが何か?」
「いえ。旅治療師としては、ずいぶん珍しい症例を扱っているようなので」
男の声は柔らかい。
だが、言葉の裏に刃がある。
エリオットが静かに言った。
「この村には患者がいる。治療を妨げるなら、あなたはこの村にとって害だ」
男の目が、再びエリオットへ戻る。
「随分はっきり言われる」
「騎士団にいた頃から、遠回しな言い方は得意ではなかった」
「それは記録にも残っています」
「なら記録しておけ。私は療養中で、復帰予定なし。この村では治療師の補助をしているだけだ。確認終了だ」
男は笑った。
「分かりました。今日はこれで」
今日は。
その言葉が残った。
男は一礼し、馬車へ戻ろうとした。
その途中で、村外れの倉庫へ視線を向けた。
「ところで、あちらは?」
ミラの背筋が凍る。
倉庫。
ネロが隔離されている場所。
村長がすぐに答えた。
「隔離場所です」
「隔離?」
「症状の重い者を入れています。外部の方は近づけません」
「確認を」
「できません」
ミラがはっきり言った。
「黒熱に似た症状があります。不用意に近づけば、あなたにも危険です」
男は少し眉を上げた。
「私の身を案じてくださる?」
「村に余計な患者を増やしたくないだけです」
エリオットが静かに一歩前に出た。
その動きは小さい。
だが、男と倉庫の間に立つ位置だった。
右腕は使えない。
それでも、通さないという意思だけは伝わった。
男は数秒、二人を見た。
そして、引いた。
「では、近づかないでおきましょう」
そう言って、今度こそ馬車へ戻った。




