救援を呼ぶ手紙 1
グレイル村の朝は、咳の音から始まった。
昨日よりひどくなっているわけではない。
けれど、完全によくなってもいない。
家々の間を抜ける灰色の風は、前日よりいくらか弱まっていた。夜のうちに村人たちが坑道へ続く道の手前に石を積み、布を張り、風の通りを少しだけ変えたからだ。
効果はあった。
けれど、十分ではなかった。
空き家の机の上に置いた反応針は、朝になっても薄く曇ったままだった。
ミラは、その針先を見つめていた。
第一段階。
観察継続。
父の説明書では、そう書かれている。
だが、ミラはもう知っていた。
この村では、第一段階が日常になってしまっている。
それは、正常ではない。
「ミラ」
入口側の部屋から、エリオットが声をかけた。
彼はすでに起きていた。右腕は改良帯で固定され、左手で杖を支えている。昨夜より顔色は少し戻っていたが、疲労は隠しきれていない。
「針は?」
「薄曇りのままです」
「坑道の風は少し弱くなったと思うが」
「はい。村人さんたちの作業は効果があります。でも、根本的には止まっていません」
ミラは窓の外を見た。
遠く、坑道の黒い口が見える。
あの奥に、黒い箱がある。
ネロの証言が正しければ、黒い幌の荷馬車が運び込んだものだ。
それが雨による崩落で露出し、風とともに村へ瘴気を流している。
患者を治しても、原因が残る。
坑道へ入るには危険すぎる。
エリオットの腕も、これ以上感知を重ねれば限界が近い。
ミラ自身の魔力も、無限ではない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が苦しかった。
「ミラ」
もう一度、エリオットが呼んだ。
「救援を呼ぶべきだ」
ミラはすぐには答えられなかった。
その言葉は、昨夜から彼女の中にもあった。
けれど、自分から口にするのが怖かった。
救援を呼ぶということは、自分たちだけでは足りないと認めることだ。
目の前に患者がいるのに。
治療師としてここにいるのに。
エリオットは、ミラの沈黙を待った。
急かさない。
ただ、静かに続ける。
「この村は、君一人で抱えるには大きすぎる」
「……一人ではありません。エリオットさんもいます」
「俺も含めてだ」
彼の声は苦かった。
「俺が感知できる患者は限られている。坑道へ近づけば右腕が反応する。ネロの黒い輪も、今の俺では断てない」
「はい」
「君も、全員を一度に治すことはできない」
「……はい」
「なら、助けを呼ぶのは逃げじゃない」
ミラは顔を上げた。
エリオットは、まっすぐに彼女を見ていた。
「村を守るための判断だ」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
昨日、ミラは村人たちに言った。
全部を治すことは今すぐにはできない。
でも、悪くしないためにできることはある。
それは、ミラ自身にも当てはまる。
全部を抱えることはできない。
なら、抱えられる形を作らなければならない。
ミラは小さく息を吐いた。
「救援を呼びます」
声に出した瞬間、胸の奥の重さが少しだけ変わった。
軽くなったわけではない。
けれど、進む方向が見えた。
「ただし、王都の公式機関には直接出しません」
「ああ」
「リンドルの魔道具屋を中継して、父の工房へ。そこから兄さんに繋いでもらいます」
「安全な経路だな」
「完全に安全ではありません。でも、今使える中では一番ましです」
エリオットは頷いた。
「俺も書く」
「エリオットさんが?」
「ああ。患者Eとしてではなく、エリオット・バーンスタンとして」
ミラは少し驚いた。
エリオットは右腕を見下ろす。
「俺の名を出すのは危険かもしれない。だが、過去に俺の腕を狙った者や、俺たちのことを調べてくれている君の兄が王都にいるのなら、俺自身の証言が必要になるかもしれない」
「でも」
「もちろん、外から読まれてもすぐ分からない形にする。名は封の内側だけでいい」
彼は静かに言った。
「これは、俺の腕だけの問題ではなくなった。だが、俺の腕から始まった線でもある。逃げるつもりはない」
ミラはしばらく彼を見つめた。
その目には、焦りよりも覚悟があった。
「では、一緒に書きましょう」
「ああ」




