全部は抱えられない 3
空き家へ戻る途中、ミラは黙っていた。
エリオットも何も言わない。
坑道の奥には、箱がある。
黒い幌の荷馬車が運んだ箱。
瘴気封入触媒か、それに近いもの。
それが雨で崩れた坑道から、村へ黒い粉と風を流している。
原因は、ほぼ見えた。
だが、解決できるかは別の話だった。
「坑道には入れません」
ミラが先に言った。
「ああ」
「今の装備では無理です。患者さんの治療も続いています。エリオットさんの腕も限界に近い」
「ああ」
「でも、箱が中にあるなら、村を完全に安全にはできません」
「入口を封じる必要がある」
「はい。中に入らずに、入口側から風と粉の流出を抑える方法を考えます」
エリオットは少し考えた。
「石と布、白石粉、村の人手。坑道入口に近づくのは短時間。風上から」
「それなら、できるかもしれません」
「俺は入口には行かない」
ミラは驚いて彼を見た。
エリオットは苦い顔をした。
「行けば、右腕が反応する。たぶん君を止める側でいられなくなる」
「……はい」
「だから、入口に行く者は村長たちに任せる。俺は村の中で気配を見る」
それは、彼にとって悔しい判断のはずだった。
けれど、正しい判断だった。
ミラは小さく頷く。
「ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない。……止まる練習中だ」
その言葉に、ミラは少しだけ笑った。
「では、それも記録します」
「すると思った」
午後、ミラは村長と相談し、グレイル村での方針を決めた。
第一に、重症者の呼吸を安定させる。
第二に、作業着や靴から黒い粉を家へ持ち込まない仕組みを続ける。
第三に、坑道の入口へ村人を近づけない。
第四に、坑道入口から村へ流れる風を抑えるため、風除けの布と石積みを短時間で設置する。
第五に、坑道内部には入らない。
村長は不安そうだったが、ミラの説明を聞き、最後には頷いた。
「完全に片づけるのは無理でも、これ以上悪くしないためにやる、ということですね」
「はい」
「分かりました。人を集めます。ただし、咳のない者だけにします」
「お願いします。作業時間は短く。口元を布で覆い、終わったら服と靴を洗ってください」
村は動き始めた。
誰かを完全に治すことより先に、村全体を悪化させないために。
ミラはその様子を見て、少しだけ胸が軽くなった。
一人ではない。
この村の人たちも、自分たちでできることを始めている。
夕方、ミラは帳面に今日の記録を書いた。
――ネロより情報取得。黒幌荷馬車により箱が坑道奥へ運び込まれた可能性高。雨による入口崩落後、瘴気漏出。
――ネロ右手首の黒輪は逃亡防止・発言封じの術式。除去不能。応急処置継続。
――坑道内調査は不可。入口からの流出抑制を優先。
――エリオットさん、感知回数二回に制限。痛み三、熱やや軽減。自ら坑道入口へ行かない判断。
――村人への応急対応指導開始。治療師が全てを抱えず、村で悪化を防ぐ体制を作ること。
最後の一文を書いた時、ミラは少し手を止めた。
治療師が全てを抱えず。
それは、簡単なようで難しかった。
けれど、今はそうしなければならない。
ミラが倒れれば、患者はもっと苦しむ。
エリオットが無理をすれば、右腕の回復は遠のく。
村人が何もしなければ、黒い粉は家々に広がる。
皆が、それぞれできることをするしかない。
「ミラ」
エリオットが声をかけた。
「はい」
「食事」
ミラは瞬いた。
「今ですか?」
「今だ。記録対象だろう」
彼は真面目だった。
ミラは少し笑った。
「はい。食べます」
「水も」
「飲みます」
「睡眠も」
「……努力します」
「努力は信用ならないと、君の家族なら言いそうだ」
「言いますね」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
灰色の村。
黒い坑道。
喉を締める瘴気の輪。
迫る追跡者。
何も解決していない。
それでも、その小さな笑いだけは、確かに二人のものだった。
その夜、村の西では、男たちが坑道入口へ近づかない範囲で石と布を運び始めた。
白石粉を撒き、風の通り道を少しずつ変える。
坑道の奥は見えない。
だが、黒い口の向こうで何かが蠢いた。
村に流れ込む風が一瞬だけ冷たくなる。
空き家の机の上で、反応針の先が薄く曇った。
ミラはそれを見て、静かに白花を握った。
エリオットは入口側で、左手を杖に添える。
二人とも、もう分かっていた。
グレイル村の夜は、まだ終わっていない。




