全部は抱えられない 2
その日の治療は、前日よりずっと慎重に進められた。
まず、反応針で患者の近くの反応を見る。
針先が薄く曇るだけなら、ミラが診て、薬草茶と蒸気薬で経過を見る。
黒変する者は、直接治療の対象。
針が震えそうなほど反応する者だけ、エリオットが黒い棘の位置を確認する。
ミラは一人目の重症者を診たあと、エリオットへ視線を向けた。
「感知、一人目です」
「ああ」
「痛みは?」
「三のまま」
「熱は?」
「変わらない」
「では次は休憩を挟んでからです」
村人たちの前でも、ミラは容赦しなかった。
エリオットも反論しない。
そのやり取りを見た村長が、小さく感心したように言った。
「あなたは元騎士らしいですね。元騎士様でも、治療師さんには敵わないようだ」
エリオットは無言になった。
ミラは真面目に答える。
「治療中の患者ですので」
村長は少し笑った。
エリオットは顔を背けたが、どこか空気は柔らかかった。
患者の治療は重い。
けれど、村全体が少しずつ動き方を覚え始めている。
それは、希望だった。
昼前、ミラはネロの様子を見に行った。
村外れの倉庫には、村長が見張りを一人置いていた。入口には白石粉が薄く撒かれ、窓は開けられている。
ネロは隅に横たわっていた。
顔色は悪い。
唇は乾き、右手首の黒い輪は昨夜より少し薄くなっているが、完全には消えていない。
反応針を近づけると、針先はすぐに黒変した。
「まだ第二段階ですね」
ミラが呟くと、ネロが薄く目を開けた。
「……あんた、本当にまた来たのか」
「容体確認です」
「俺は、あんたらを見張ってたんだぜ」
「知っています」
「なら、放っとけよ」
ミラは膝をつき、彼の呼吸を確かめた。
「放っておけば、あなたは黒い輪に殺されるかもしれません」
「その方が、あんたらには都合いいだろ」
「治療師としては都合がよくありません」
ネロは乾いた笑いを漏らそうとして、咳き込んだ。
すぐにミラが浄化布を口元へ当てる。
黒い靄がほんの少し滲み、布に吸われた。
エリオットは入口に立ち、周囲を見ていた。
ネロの逃げ道を塞ぎながら、村人が近づきすぎないようにもしている。
ミラはネロの右手首を見た。
「この輪について、話せることはありますか」
ネロの顔が強張った。
黒い輪が、じわりと濃くなる。
エリオットがすぐに言う。
「無理に喋らせるな。反応している」
「はい」
ミラは質問を変えた。
「では、答えなくていいです。頷くか、首を振るだけにしてください」
ネロは警戒した目で彼女を見る。
「あなたは黒い幌の荷馬車に関わっていましたか」
かすかに頷く。
「箱をグレイル村の坑道方面へ運びましたか」
また頷く。
「中身が危険なものだと知っていましたか」
ネロは迷った末、頷いた。
ミラは息を詰める。
「でも、詳しくは知らされていなかった?」
頷く。
「触れたら危険だと?」
頷く。
「その黒い輪は、仕事を受けた時につけられたものですか」
ネロは首を横に振った。
ミラは眉を寄せる。
「では、以前から?」
頷く。
「何度も運びを?」
頷く。
エリオットの表情が険しくなる。
ミラは慎重に続けた。
「逃げようとすると、その輪が反応しますか」
頷く。
「話してはいけないことを話そうとしても?」
ネロの顔が青ざめた。
黒い輪がまた濃くなる。
ミラはすぐに言った。
「答えなくていいです」
反応は、それだけで十分だった。
ネロは荒い息をしながら、低く呟いた。
「俺たちは……名前も知らねえ。先生って呼ぶだけだ。顔を見たこともねえ奴も多い。黒い盤に印が出ると、荷を動かす。逆らうと……」
黒い輪が脈打つ。
エリオットが鋭く言った。
「そこまでだ」
ミラも白花の光を弱く流し、輪の反応を抑えた。
ネロは歯を食いしばり、涙目になっていた。
「……俺だって、好きでこんな」
「今は休んでください」
ミラは水を少し飲ませた。
ネロは悔しそうに顔を背ける。
「俺を助けても、あんたらは得しねえぞ」
「損得で治療していません」
「ばかだな」
「よく言われます」
ネロは目だけを動かして、入口のエリオットを見た。
「あんたはいいのかよ。俺はあいつらに報告した。あんたの腕のことも、治療師のことも」
エリオットの目が冷たくなる。
けれど、声は静かだった。
「信用はしていない」
「だろうな」
「だが、今ここで死なせれば、君に輪をつけた者の思い通りになる」
ネロの表情が変わった。
「それは、癪だ」
エリオットは低く言った。
ミラは彼を見た。
エリオットの顔には怒りがあった。
けれど、その怒りはネロだけに向いているものではなかった。
人を道具として使い、話そうとすれば喉を締め、用済みなら黒いものに呑ませる。
そういう相手への怒りだった。
ネロは少しだけ黙り、やがて掠れた声で言った。
「……坑道の奥には入るな」
ミラとエリオットの視線が集中する。
黒い輪がじわりと濃くなる。
それでもネロは、短く吐き出した。
「箱は、置いた。開けてねえ。置けって言われた場所に置いた。けど、雨で坑道の入口が崩れて……風が通った。たぶん、それで漏れてる」
「箱はまだ坑道の中に?」
ネロは頷いた。
「何個ですか」
ネロは指を動かしかけた。
黒い輪が強く脈打つ。
彼は顔を歪め、声を詰まらせた。
エリオットが即座に言った。
「もういい」
ミラも質問を止める。
「十分です。今は休んでください」
ネロは苦しげに息を吐いた。
「……あんたら、逃げた方がいい」
「村の患者さんを置いてはいけません」
「だから、ばかだって言ってんだ」
その声は、悪意よりも疲れに満ちていた。




