全部は抱えられない 1
夜が明けても、グレイル村の空は晴れなかった。
薄い雲が低く垂れ込め、村の屋根も、石畳も、遠くの坑道跡も、すべて灰色に沈んでいる。
ミラは、空き家の机の前で反応針を見つめていた。
針先は、薄く曇っている。
第一段階。観察継続。
けれど、完全に澄むことはなかった。
夜の間、何度か確認したが、針先の曇りは消えたり戻ったりを繰り返していた。坑道の方から、薄い黒い気配が村へ流れている。それが、風に乗っているのか、地面を伝っているのかはまだ分からない。
ただひとつ分かっているのは、この村にいる限り、黒いものから完全には離れられないということだった。
「眠れたか」
入口側の部屋から、エリオット・バーンスタンが声をかけた。
ミラは振り返る。
「少しは」
「少し、か」
「エリオットさんは?」
「同じくらいだ」
彼は椅子に座ったまま、右腕を改良帯で支えていた。昨夜、ネロの治療で負荷がかかったせいで、右腕にはまだ熱が残っている。
ミラはすぐに立ち上がった。
「診ます」
「先に朝食を」
「診てからです」
「……分かった」
以前よりずっと早く折れる。
その素直さが、今のエリオットの疲労を物語っているようで、ミラは少し胸が痛んだ。
右腕を机の上へ置かせ、包帯の上から熱を確認する。
「痛みは?」
「三。動かすと四に近い」
「熱は肘まで。肩は?」
「少し重い」
「今日は、患者さんの感知は最大三人までにします」
エリオットの眉が動いた。
「三人」
「はい。それ以上は反応針と私の診察で判断します。エリオットさんの感知は重症者だけです」
「患者はまだ多い」
「分かっています」
ミラは静かに言った。
「でも、あなたが倒れたら、重症者を診ることもできません」
エリオットは口を閉じた。
反論したいのだろう。
けれど、もう分かっている。
自分の力を使いすぎれば、右腕が先に壊れる。
それは、ミラを助けることにも、患者を助けることにもならない。
「……三人までだな」
「はい」
「君は?」
今度はミラが瞬いた。
「私?」
「君も制限を決めろ」
「私は」
「昨日、顔色が悪かった」
エリオットの声は低い。
「君も全部は診られない」
それは、ミラが言われたくなかった言葉だった。
けれど、必要な言葉でもあった。
ミラは少しだけ視線を落とした。
「……今日、私が直接黒い棘を抜く治療は五人までにします。それ以外の軽症者は、薬草茶と蒸気薬、休息、粉を持ち込まない対策で様子を見ます」
「五人でも多い」
「昨日と同じです。でも、今日はエリオットさんの感知を減らします。反応針で判断できる範囲を増やします」
「倒れないな?」
「倒れません」
そう言った瞬間、エリオットの目が細くなった。
ミラは小さく息を吐く。
「……倒れないようにします」
「それならいい」
まるで自分がいつも言われていることを返しているようだった。
ミラは少しだけ苦笑した。
「エリオットさん、治療師みたいですね」
「君に鍛えられているからな」
「良い傾向です」
「褒めるな」
いつものやり取り。
それでも、その朝は少しだけ救いになった。
午前中、ミラはまず村長と村の女性たちを集めた。
治療の前に、村全体でやるべきことを決めるためだった。
空き家の外に簡易の洗い場を作り、作業靴を洗う場所を分ける。
黒い粉が付いた布は隔離布の近くには置かず、白石粉を撒いた桶に入れる。
咳のある者は風上の空き家で休ませる。
坑道側の窓は閉め、東側の窓だけを開ける。
子どもを坑道道へ近づけない。
黒い靄を吐いた者がいたら、慌てず浄化布を口元に当てる。
ミラは一つずつ実演した。
「反応針がこのくらい曇ったら、部屋の換気をします。黒くなったら、人を外へ出して、私かエリオットさんを呼んでください。震えたら、絶対に近づかないでください」
村の女性たちは緊張した顔で頷いた。
「私たちにできるでしょうか」
「できます」
ミラははっきり言った。
「全部を治すことは、今すぐにはできません。でも、悪くしないためにできることはあります」
それは、自分自身にも言い聞かせる言葉だった。
全部は抱えられない。
だから、抱えなくても済む形を作る。
エリオットは壁際でその様子を見ていた。
時折、右腕の熱に眉を寄せる。
それでも、村人たちの動きや入口の様子を静かに確認している。
剣を握らずとも、彼は守る位置に立っていた。




