見ていた男 3
空き家へ戻る頃には、夜はさらに深くなっていた。
ネロは村の倉庫の一角に隔離された。村人を近づけず、窓を開け、白石粉を入口に撒いてある。エリオットが入口の位置を確認し、逃げ道も塞いだ。
ミラは戻ってすぐ、エリオットの右腕を診た。
「痛みは?」
「四」
即答だった。
ミラの顔が強張る。
「熱は?」
「肘まで。肩も少し」
「右手は?」
「動きかけたが、止めた」
「すぐ処置します」
ミラは湿布を当て、泉の水を薄く含ませた布で熱を冷ました。
エリオットは黙っていた。
悔しそうだった。
「断てれば、あの黒い輪を」
「今は無理です」
「分かっている」
「無理に断とうとしたら、あなたの腕が壊れます」
「分かっている」
声が少し荒い。
ミラは手を止めず、静かに言った。
「でも、あなたが見つけてくれたから、ネロさんは息ができるようになりました」
「助けるべき男かどうかも分からない」
「それでも、今は生きています」
「また逃げて、報告するかもしれない」
「だから見張ります。話も聞きます。必要なら村長さんと相談して、リンドルへ引き渡します」
「君は」
エリオットは言葉を切った。
ミラは顔を上げる。
「何ですか?」
「……敵かもしれない相手でも、助けるんだな」
ミラは少し考えてから答えた。
「はい」
「怖くないのか」
「怖いです」
「それでも?」
「目の前で死にかけている人を、見捨てる方が怖いです」
エリオットは黙った。
その言葉は、彼の中のどこかに深く落ちたようだった。
「それに」
ミラは湿布を整えながら続けた。
「助けることと、信用することは別です」
エリオットは少しだけ目を見開いた。
「この人が何をしたかは確認します。危険なら対処します。でも、治療しない理由にはしません」
「……そうか」
「はい」
エリオットは、長く息を吐いた。
「君は強いな」
「強くありません。父の道具がなければ、今の治療は危なかったです。エリオットさんがいなければ、黒い糸の位置も分かりませんでした」
「それでも、君が治療した」
「一人ではありません」
ミラは静かに言った。
「一人では、できませんでした」
エリオットは何も返さなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
ミラはその夜の記録を書いた。
――リンドルからの不審者と思われる男、村外れで瘴気侵蝕により倒れる。名はネロ。
――右手首に黒輪状の瘴気痕。逃亡防止または発言封じの術式の可能性。
――黒幌の箱を坑道へ運んだと発言。王都、黒い盤、先生という断片。
――発言時、黒輪が活性化し呼吸を阻害。詳細聴取は危険。
――応急治療により呼吸安定。黒輪本体は除去不能。
――エリオットさん、瘴気位置感知。右腕痛み四、熱肘から肩。明日は感知回数を大幅制限。
そこまで書いて、ミラは筆を止めた。
黒い盤。
先生。
誰かがいる。
黒いものを作り、運ばせ、坑道へ置かせた誰かが。
そして、その誰かは、運び屋であるネロさえも、用済みになれば呑み込むような仕掛けをしている。
ミラは反応針を見た。
針先は、まだ薄く曇っている。
外は静かだった。
けれど、坑道の奥の黒いものは、確実に近づいている。
村外れの倉庫で、ネロは荒い息をしながら目を開けた。
白石粉の輪。
窓から入る冷たい風。
足にかけられた緩い縄。
逃げられない。
だが、それよりも恐ろしいものがあった。
右手首の黒い輪が、じくじくと熱を持っている。
彼は震えながら呟いた。
「……見られてる」
誰に。
それは分からない。
けれど、黒い水晶盤の奥から、誰かがこちらを覗いているような気がした。
「俺は、喋ってねえ……まだ、全部は……」
その声は誰にも届かなかった。
ただ、右手首の黒い輪が、闇の中で小さく脈打った。




