見ていた男 2
ミラは鞄を掴んで立ち上がった。
だが、エリオットがすぐに言った。
「待て」
「でも」
「そのまま走るな。罠かもしれない」
ミラは足を止めた。
心臓は急いている。
けれど、エリオットの言う通りだった。
外に黒い気配がある。
不審な男もいる。
村人を装った罠かもしれない。
ミラは深く息を吸った。
「反応針、隔離布、白石粉、浄化布を持ちます。封印箱はここに置いていきます」
「箱を置いていくのか」
「携行袋ごと、白石粉の輪の中に置きます。外へ持ち出すより安全です」
「分かった。俺は入口側を見る」
「右腕は」
「使わない」
「痛みが四になったら」
「言う」
その返事を確認し、ミラは最低限の道具だけを持った。
外へ出ると、村長が慌てて走ってくるところだった。
「治療師さん! 村の外れで人が倒れていると!」
「村人ですか?」
「分かりません。子どもが炭焼き小屋の近くで見つけて……咳をして、黒いものを吐いたと」
ミラはエリオットを見た。
彼の表情が険しくなる。
「行きましょう。ただし、村人を近づけないでください」
ミラが言うと、村長はすぐに頷いた。
「分かった!」
炭焼き小屋は、村の外れにあった。
使われていない小屋で、周囲には枯れた薪と古い炭袋が積まれている。坑道へ向かう細い道からも近く、夜になると村の灯りが届きにくい。
その小屋の影に、男が倒れていた。
灰色の外套。
エリオットは男の雰囲気に最近感じていた謎の視線を重ねた。
男は地面に膝をつき、片手で喉を押さえている。咳き込むたび、黒い靄が口元から漏れた。
村人が近づこうとするのを、エリオットが低く止めた。
「離れてください」
その声には逆らえない力があった。
村人たちは足を止める。
ミラは反応針を取り出した。
針先がすぐに黒く染まる。
第二段階。
封印補強、隔離推奨。
「この人を小屋の外へ。風上に移します。ただし、誰も素手で触らないでください」
ミラは隔離布を広げた。
エリオットが周囲を見回す。
「右手首。黒い」
彼が言った。
ミラは男の手首を見た。
そこには、黒い輪のような痣があった。
ただの汚れではない。
皮膚の下に、黒い糸が絡まっているように見える。
「村人とは違う……」
「絡みついているようだ」
エリオットの声が低くなる。
「この男の中の黒いものは、村人より深い」
男が咳き込みながら顔を上げた。
ミラを見る目に、恐怖が浮かんでいる。
「た、助け……」
その声は掠れていた。
エリオットの表情が硬くなる。
「ミラ」
「分かっています」
ミラは男から目を逸らさなかった。
この男は、自分たちを見張っていた可能性がある。
敵側の人間かもしれない。
ミラやエリオットの情報を、誰かに送った可能性が高い。
それでも、今、彼は苦しんでいる。
ミラは言った。
「この人が何をしたかは、後で聞きます。今は死なせません」
エリオットは一瞬、何かを言いかけた。
だが、すぐに飲み込んだ。
「分かった。治療は君がする。逃げ道は俺が塞ぐ」
彼は男の足元から少し離れた位置に立った。
右腕は使えない。
剣もない。
それでも、男が動けば左手と身体で止められる位置。
元騎士の判断だった。
ミラは男のそばに膝をついた。
「聞こえますか」
男はかすかに頷く。
「名前は?」
「……ネロ」
「ネロさん。今から治療します。暴れないでください。黒いものが体内に深く入り込んでいます」
男の瞳が揺れた。
「ちが、俺は……触ってない……運んだだけで」
エリオットの目が鋭くなる。
「何を運んだ」
ネロは答えようとした。
だが、その瞬間、喉の奥で黒いものが膨れた。
彼は激しく咳き込み、黒い靄を吐く。
反応針が震えた。
第三段階。
即時隔離。
ミラは即座に隔離布を男の身体の周りへ広げ、白石粉を輪のように撒いた。
「村長さん、全員を下がらせてください!」
「分かった!」
村人たちが慌てて離れる。
エリオットが低く言った。
「喉に絡んでいる。だが本体は右手首だ」
「手首?」
「黒い輪の下。そこから胸へ伸びている」
ミラは男の右手首へ視線を落とした。
黒い痣が脈打っている。
まるで、首輪ならぬ手枷だ。
「これは……瘴気を扱う者につける印?」
ミラは呟いた。
ネロが苦しげに笑った。
「印じゃ、ねえ……逃げねえようにする、鎖だ……」
「誰に付けられたんですか」
男は答えようとする。
だが、また黒い靄が喉を塞いだ。
エリオットが叫ぶ。
「ミラ、喉を先に!」
「はい!」
ミラは白花の光を細く流した。
喉に絡む黒い糸を、無理に引き抜かず、浮かせる。
だが糸は逃げるように胸へ沈む。
「下へ逃げた。心臓の方じゃない、右肺の奥!」
「分かりました」
「待て、手首から新しい糸が伸びる!」
ミラは息を詰めた。
手首の黒い輪が、治療に反応している。
まるで、男が何かを喋ろうとするたびに、身体の内側から口を塞いでいるようだった。
ミラは奥歯を噛みしめる。
「これでは話せません」
「封じているのか」
「たぶん」
「断てるか」
エリオットはそう言ってから、すぐに自分の右腕を見た。
断つ。
その言葉に、彼の護符が反応した。
右手の指が震える。
ミラは鋭く言った。
「今は駄目です」
「分かっている」
エリオットは左手で右腕を押さえた。
額に汗が浮かぶ。
「……見つけるだけだ」
「はい。お願いします」
ミラは手首の黒い輪へ白花の光を流した。
治すのではない。
戻すのでもない。
まずは、男を殺そうとしている黒い糸の動きを鈍らせる。
父の隔離布が、黒い靄を外へ漏らさないよう受け止めている。反応針は震え続けているが、白石粉の輪の外には黒い気配が出ていない。
道具がなければ、ここで村人にまで瘴気が広がっていたかもしれない。
「父さん……」
ミラは小さく呟き、さらに光を絞った。
黒い輪の一部が、わずかに緩む。
ネロが息を吸った。
「黒幌……箱を、坑道へ……」
途切れ途切れの声。
「誰に命じられた」
エリオットが問う。
ネロは首を振った。
「名前は、知らねえ……俺らは運ぶだけだ。王都の……黒い盤を持つ、先生の……」
その瞬間、黒い輪が強く脈打った。
ネロの身体が跳ねる。
ミラは急いで光を抑えた。
「これ以上喋らせると危険です!」
エリオットは悔しげに息を吐いた。
だが頷いた。
「命が先だ」
「はい」
ミラは治療の方へ集中した。
手首の黒い輪そのものは、今は外せない。深く食い込みすぎている。
無理に剥がせば、男の魔力路ごと傷つける。
だから、喉と胸に絡んだ黒い糸だけを緩め、呼吸を確保する。
完全な治療ではない。
応急処置。
それでも、ネロの咳は少しずつ落ち着いていった。
反応針の震えが止まる。
黒変は残っているが、第三段階から第二段階へ下がった。
ミラは大きく息を吐いた。
「今は、ここまでです」
ネロは地面に倒れ込んだまま、荒い息をしている。
エリオットは警戒を解かなかった。
「拘束した方がいい」
「はい。ただし、手首を強く縛らないでください。黒い輪に触れると危険です」
村長が縄を持ってきた。
エリオットが左手だけで指示を出す。
「足を緩く。両腕は身体の前で。右手首には触るな。逃げようとしたら声を上げてください」
エリオットの指示に、村人たちは従った。
ネロは抵抗しなかった。
抵抗する力も残っていないようだった。




