見ていた男 1
グレイル村の三日目は、重い灰色の風の中で暮れていった。
ミラは、その日も患者を一人ずつ診た。
午前に三人。
午後に二人。
それ以上は診なかった。
本当なら、咳をする者全員をすぐ楽にしてやりたかった。けれど、患者の体内に入り込んだ黒い棘を抜く治療は、普通の治癒魔法とは違う。神経を細く張り詰め、白花の光を少しずつ流し、黒いものが逃げる位置を追わなければならない。
それには、ミラの力だけでは足りなかった。
エリオットが必要だった。
「左胸の奥。浅い」
「はい」
「待て、動いた。喉の方へ逃げる」
「分かりました」
「今なら抜ける」
エリオットの低い声に合わせて、ミラは白い光を細く絞る。
患者が苦しげに咳き込み、口元から黒い靄が一筋漏れた。それを浄化布で受け止め、泉の水を一滴落とす。
黒い靄は布の上で薄れて消えた。
患者の呼吸が少し楽になる。
だが、そのたびに、エリオットの右腕には熱が溜まっていった。
彼は右腕を使っていない。
剣も握っていない。
ただ、見ているだけ。
それでも、瘴気を見つけるたびに、右手首の護符が熱を持つ。魔を断とうとする力が、まだ壊れた魔力路を通ろうとするのだろう。
ミラは五人目の治療を終えると、きっぱり言った。
「今日はここまでです」
村人たちがざわめいた。
「でも、うちの夫もまだ咳が」
「明日必ず診ます。ですが、今無理をすると治療の精度が落ちます」
ミラはできるだけ落ち着いた声で言った。
「今日診た方も、完全に治ったわけではありません。安静にしてください。坑道へは絶対に近づかないでください。作業着と靴は外で払って、家に入れる前に洗ってください」
村人たちは不安そうだった。
それでも、前日よりは混乱していなかった。
父オリヴァーから届いた反応針と隔離布は、村人たちにとっても分かりやすい目安になった。針先が曇れば空気を入れ替える。黒ずめばその場から離れる。震えたら全員を外へ出す。
見えない不安に、形が与えられた。
それだけで、人は少し落ち着ける。
夕暮れ、ミラは空き家へ戻ると、まずエリオットの右腕を診た。
「痛みは?」
「三。時々四に近い」
「熱は肘まで。昨日より強いです」
「見る回数が多かった」
「はい。なので明日は、午前と午後で分けます。エリオットさんが見る患者数も制限します」
「患者はまだいる」
「分かっています」
ミラは湿布を当てながら、彼の顔を見た。
「でも、あなたが倒れたら、私は黒い棘の位置を正確に追えません。結果的に患者さんの治療が遅れます」
「……分かった」
エリオットは反論しなかった。
その素直さが、逆にミラには少し痛かった。
彼も焦っている。
自分が役に立てると分かったからこそ、無理をしたくなる。
でも、そこで止まらなければ、また右腕を壊す。
ミラは記録帳を開いた。
――グレイル村二日目。患者五名治療。全員に黒棘反応。咳、微熱、胸部圧迫感。
――エリオットさん、瘴気感知により右腕熱増加。痛み三から四未満。明日以降、感知回数制限。
エリオットが横から見て、小さく言った。
「制限、か」
「必要です」
「分かっている」
彼は一拍置いて、続けた。
「俺は、できることがあると分かると、すぐやりすぎるらしい」
ミラは筆を止めた。
「……自覚があるのは、とても良いことです」
「君に何度も言われたからな」
「では、記録しておきます」
「それも書くのか」
「もちろんです」
エリオットは少し困った顔をしたが、止めなかった。
その時、机の上に置いていた反応針の先が、ふっと曇った。
ミラとエリオットは同時にそちらを見た。
薄曇り。
父の説明書によれば、第一段階。
観察継続。
だが、部屋の中には患者はいない。封印箱も補強輪と隔離布で包み、携行袋に収めてある。
「箱ですか?」
ミラが小声で言う。
エリオットは目を細めた。
「いや。外だ」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「村の外れ。炭焼き小屋の方」
ミラの胸がざわついた。
昨日、リンドルから追ってきたと思われる男がいた方角。
「見張りの男ですか」
「分からない。ただ、黒い気配が強くなっている」
その瞬間、外から犬の吠える声がした。
一度。
二度。
そして、誰かの悲鳴が続いた。




