旅治療師の期限 1
村での朝は、贈り物から始まるようになっていた。
ミラが診療所代わりの空き家の扉を開けると、いつものように軒先に小さな籠が置かれていた。
中には、黒パンが二つ、ゆで卵が三つ、山羊乳の小瓶、畑で採れた菜っ葉、それから蜂蜜を塗った小さな焼き菓子が入っている。
添えられていた紙には、丸みのある文字でこう書かれていた。
――治療師さんへ。朝ごはんにどうぞ。昨日はうちの子を診てくれてありがとう。
ミラは思わず頬を緩めた。
「……ありがたいけど、また増えてる」
最初の頃は、村長の家から食事が届けられるだけだった。
けれど診療を始めて数日も経つと、村人たちが次々と差し入れを持ってきてくれるようになった。
熱を出した子どもの母親からは卵。
腰痛を診た老人からは干し果物。
畑で手を切った青年の家からは新鮮な野菜。
村長の妻からは温かなスープ。
ありがたい。
とてもありがたい。
ただ、ミラ一人では少し多い。
彼女は籠を抱えて室内に入り、机の上へ並べた。空き家には簡単なかまどがあり、井戸も近い。元薬師が暮らしていた家なので、薬草棚や作業机も残っている。
旅治療師として野宿や馬車泊にも慣れているミラにとって、屋根と寝台があるだけで十分すぎるほどだった。
だが、この村の人々はそれでは足りないと思うらしい。
薪はいつの間にか入口脇に積まれている。
水桶は朝になると満たされている。
洗濯物まで、近所の女性たちが「ついでだから」と持っていこうとする。
ミラは最初、何度も遠慮した。
けれど村の女性たちは強かった。
「治療師さんが倒れたら、誰がうちの腰を診るんだい」
「若い娘が一人で全部やろうとするもんじゃないよ」
「村で呼んだんだから、村で世話するのは当たり前だろう」
そう言われてしまえば、ミラもそれ以上断れなかった。
旅先で受ける親切は、遠慮しすぎるとかえって失礼になることがある。
それもまた、旅で覚えたことのひとつだった。
ミラは菜っ葉を洗い、簡単なスープを温めた。パンを切り、ゆで卵を皿に置く。焼き菓子はあとで休憩の時に食べよう。
朝食を取っていると、扉が叩かれた。
「はい」
返事をすると、顔を出したのは村長だった。
「おはよう、ミラさん。朝から悪いね」
「おはようございます。何か急患ですか?」
「いや、そうじゃない。少し話があってね」
村長の表情は、いつもより少し申し訳なさそうだった。
ミラは椅子を勧める。
「どうぞ。ちょうど朝食をいただいていたところです。スープ、飲まれますか?」
「いやいや、治療師さんの分を取るわけにはいかないよ」
「たくさんいただいたので」
ミラが微笑むと、村長は困ったように笑った。
「村の者が、皆あれこれ持ってくるだろう」
「はい。とても助かっています」
「迷惑じゃないかい」
「いいえ。嬉しいです」
それは本心だった。
王都にいた頃、ミラはいつも比較される側だった。
優秀な兄。優秀な同級生。魔術学校で高い評価を得る生徒たち。
ここでは違う。
ミラの魔法がどれほど派手かを問う人はいない。
ただ、熱が下がったことを喜び、痛みが軽くなったことに礼を言い、包帯を巻いた手でパンを渡してくれる。
それが不思議と、胸に染みた。
村長はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ミラさん。実は、最初にお願いしていた滞在の期限が、そろそろ近い」
ミラは手を止めた。
分かっていたことだった。
この村へ来たのは、旅治療師としての依頼だ。
最初の契約は十日間。重い症状の者を優先して診て、村の薬師では手が足りない分を補う。
その約束で来ている。
「はい」
「村としては、もう少しいてもらえるなら本当にありがたい。まだ診てほしい者もいるし……何より、エリオットのこともある」
村長の声が少し沈む。
「だが、君は旅治療師だ。次の行き先もあるだろう。こちらから無理に頼むことはできない」
ミラはすぐには答えられなかった。
窓の外では、朝の光の中を村人たちが行き交っている。
この村に来て、まだ長い時間が経ったわけではない。
けれど、もうただの逗留先ではなくなっていた。
治癒の女神の祠。
白花の紋。
エリオットの護符。
彼の右腕に見える黒い瘴気と、白い刃の光。
そして、昨日浮かび上がった剣の紋。
今この村を離れることは、できない。
けれど、ミラには次の予定がある。
南の小村からも依頼が来ていた。季節の変わり目に熱病が出やすい地域で、子どもと老人が多いと聞いている。急を要する重症者がいるという報せはないが、待っている人がいるのは確かだ。
「……次の逗留先には、連絡を入れる必要があります」
ミラは静かに言った。
「ですが、エリオットさんの右腕は、今離れていい状態ではありません。瘴気の反応も不安定ですし、昨日は護符にも新しい変化がありました」
「そうか」
「村内の診療も、まだ経過を見たい方がいます。ですから、数日から一週間ほど、滞在を延長できないかと私からも相談しようと思っていました」
村長の顔が明るくなる。
「本当かい」
「はい。ただし、無期限には残れません」
「もちろんだ。延長分の報酬は、村で何とかする。食事や薪もこれまで通り――」
「報酬については、後で相談しましょう。まずは次の村への連絡を優先したいです」
「使いを出そう。隣町へ行く者がいるから、その者に手紙を持たせればいい」
「助かります」
ミラはほっと息をついた。
少しだけ胸が軽くなる。
けれど同時に、別の重さも生まれた。
延長はできる。
でも、それはあくまで一時的なものだ。
この村に残り続ければ、エリオットの経過は見られる。
だが、伝承の調査はいずれ行き詰まる。
騎士団の記録。
エリオットが負傷した討伐任務の詳細。
守護騎士や治癒の女神に関する詳しい伝承をまとめた記録。
それらは、この村にはない。
いずれ、王都の情報が必要になる。
兄ライヘルの顔が、ふと脳裏をよぎった。
王立魔術院の研究員である兄なら、何かを調べられるかもしれない。
けれど、まだ手紙を書くには早い気もしていた。
何を、どこまで書けばいいのか。
エリオットのことを、本人の許可なくどこまで知らせていいのか。
ミラは膝の上で指を握った。
村長が立ち上がる。
「じゃあ、手紙の用意ができたら言っておくれ」
「はい。ありがとうございます」
「こちらこそ。ミラさんがいてくれて、本当に助かっているよ」
村長が出ていったあと、ミラはしばらく机の前に座っていた。
籠の中の焼き菓子に視線が落ちる。
村人たちの善意。
エリオットの治療。
次の村の患者。
伝承の謎。
どれも、軽く扱えない。
ミラは帳面を開き、白紙のページに小さく書いた。
――滞在延長。次の逗留先へ連絡。エリオットの状態が安定するまで。
そして、その下にもう一行。
――村内調査には限界あり。王都側の記録が必要になる可能性。
書いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
王都。
自分が選ばれなかった場所。
エリオットが剣を失った場所。
いつか、戻らなければならないのかもしれない。




