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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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旅治療師の期限 2

エリオットが診療所へ来たのは、午前の診療が一段落した頃だった。

 今日も時間どおりだ。

 扉を開けた彼を見て、ミラは思わず少し笑った。

「おはようございます。ちゃんと来ましたね」

「俺はそんなに信用がないのか」

「先日までの行動を考えると、少し」

「……反論しづらいな」

 エリオットは不満そうにしながらも、素直に椅子へ座った。

 ミラは右腕の包帯を外し、熱を確認する。

「昨日より落ち着いていますね」

「そうか」

「痛みは?」

「朝は少し強かった。今は鈍い」

「布の練習はしましたか」

「していない」

「木剣は?」

「触っていない」

「本当に?」

 ミラがじっと見ると、エリオットは眉を寄せた。

「本当だ」

「では、今日は少しだけ進めましょう」

 エリオットの表情がわずかに明るくなる。

「木剣か」

「違います」

「……」

「今日は小さな木片を押す練習です」

 ミラは机の上に、手のひらに収まるほどの丸い木片を置いた。軽い。持ち上げるのではなく、指先で少し押すだけのものだ。

 エリオットはそれを見て、深く息を吐いた。

「剣までは遠いな」

「はい」

「少しは慰めてくれてもいいだろう」

「近いと言ったら嘘になります」

「君は本当に正直だ」

「でも」

 ミラは木片を彼の右手の近くへ置いた。

「遠くても、道はあります」

 エリオットは黙った。

 それから、ゆっくりと右手を伸ばした。

 親指と人差し指が木片に触れる。昨日より少しだけ動きが滑らかだ。彼は慎重に力を込める。

 木片が、机の上をわずかに滑った。

 ほんの指一本分。

 けれど、動いた。

 エリオットの目が小さく見開かれる。

「できました」

 ミラはすぐに記録した。

「もう一度」

「休憩を挟みます」

「今、できた」

「だから休憩です」

 エリオットは不服そうだったが、昨日ほど食い下がらなかった。

 ミラは少しだけ安心する。

 治療は、患者が自分の痛みと向き合えるようになることから始まる。

 エリオットはまだ焦っている。けれど、少なくともミラの言葉を聞こうとしている。

 その変化は、腕の動きと同じくらい大きかった。

 休憩の間、ミラは魔力結晶を使って右腕の反応を確認した。

 黒い瘴気はまだある。

 だが、昨日より暴れてはいない。

 その奥に、白い刃の光が見えた。

 細く、静かに。

 ミラは息を潜める。

 護符の剣の紋が、かすかに浮かんでいた。

 エリオットはミラの表情に気づいたらしい。

「また何か見えたのか」

「はい」

「昨日言っていた、白い光か」

「そうです」

「それは、俺に関係があるんだろうか」

 ミラは手を止めた。

 エリオットの声は静かだった。

「昨夜、君は言った。俺自身にも何かがあるのかもしれない、と」

「……はい」

「それは、俺の腕が治ることと関係するのか」

 ミラはすぐに答えられなかった。

 隠し続けるべきだろうか。

 それとも、少しずつ話すべきだろうか。

 エリオットは子どもではない。自分の身体に起きていることを知る権利がある。

 けれど、伝説や守護騎士の話を今すべて告げるのは重すぎる。

 ミラは慎重に言った。

「関係する可能性はあります。ただ、まだ分かっていないことが多いです」

「君は、何かを調べている」

「はい」

「治癒の女神のことか」

「それと……守護騎士という伝承について」

 エリオットの眉が動いた。

「守護騎士」

「女神に仕えた騎士の伝承です。瘴気や黒魔術を断つ力を持っていた、とエダさんから聞きました」

 部屋の空気が少し重くなる。

 エリオットは自分の右手を見下ろした。

「それが、俺と関係すると?」

「可能性の話です」

「だが、君はそう疑っている」

 ミラは目を伏せた。

「はい」

 嘘はつけなかった。

 エリオットはしばらく何も言わなかった。

 怒るかもしれないと思った。

 そんな伝承を勝手に重ねるな、と言われても仕方がない。

 けれど、彼が口にしたのは別のことだった。

「俺は、ただ剣を握りたいだけだ」

 その声は低く、少し掠れていた。

「守護騎士だの、女神だの、そんなものは分からない。俺は、自分の腕がなぜ壊れたのかも分からないまま二年過ごした」

「はい」

「今さら、何かの血筋だ伝承だと言われても、俺には扱いきれない」

「はい」

「だが」

 エリオットはミラを見た。

「それが俺の腕を治す手がかりになるなら、知る必要がある」

 ミラは胸の奥が痛むのを感じた。

 彼は逃げようとしていない。

 怖くても、困惑しても、自分に関わることなら知ろうとしている。

「私も、そう思います」

 ミラは答えた。

「ただ、村で分かることには限界があります。エダさんの言う伝承、祠の記録、あなたの護符。今ある手がかりは調べています。でも、騎士叙任式の記録や王都の騎士団に関わる記録、伝承に関する詳しい記録は、この村にはありません」

「騎士叙任式の記録?」

 エリオットが聞き返した。

 ミラはわずかに目を見開く。

「覚えていますか。騎士叙任の時に、石へ剣を向ける儀式があると聞きました。確か、試し石がどうこう、とか」

 昨日、エダから守護騎士という名が出たときにふと思い出した、騎士団における儀礼のひとつ。魔術学院時代に一時期研究していた祭祀についての記録の中に、騎士団の叙任式での作法が守護騎士に関するものだったと書いてあったような記憶がある。ミラが読んだ本のほんの一文だけの記録だったのでほとんど記憶から消え去っていたが。

 エリオットの表情が少し遠くなる。

「ああ。騎士になった者は皆やる。王国の礎に剣を捧げるとか、そんな意味だったはずだ」

「その時、何か変わったことはありませんでしたか」

「……」

 エリオットは眉を寄せた。

 記憶を探るように、視線を机の上へ落とす。

「光った」

 ぽつりと言った。

 ミラは息を呑む。

「試し石が?」

「いや、気のせいだと思っていた。剣を振る仕草をした時、石の表面に白い筋のようなものが走った気がした。だが、周りは何も言わなかったし、すぐに消えた」

「そのことを誰かに?」

「言わなかった。儀式で緊張していたから、見間違いだと思った」

 ミラの心臓が早鐘を打つ。

 試し石。

 白い筋。

 それはおそらく、守護騎士の兆候。

 繋がった。

 完全ではない。けれど、あまりにも符合しすぎている。

「その後、何か変わったことは?」

「特に……いや」

 エリオットは言葉を止めた。

「叙任式の後、しばらく上官の態度が妙だった。妙に俺の任務記録を気にしていた気がする」

「任務記録」

「討伐した魔物の報告だ。俺には普通のことだったが、俺が斬った魔物だけ瘴気の残りが少ないと言われたことがある。同行した魔術師が驚いていた」

 ミラは静かに息を吸った。

 もう、偶然とは言いづらい。

 しかし、ここで結論を急ぐわけにはいかない。

「エリオットさん。このことは、記録してもいいですか」

「構わない」

「場合によっては、王都の資料を調べる必要があります」

 エリオットの表情が少し硬くなった。

「王都か」

「はい」

 王都。

 その言葉が、部屋の中に重く落ちる。

 ミラにとっても、エリオットにとっても、そこは簡単に戻れる場所ではない。

 ミラは王都で選ばれなかった。

 エリオットは王都で剣を失った。

 けれど、手がかりはそこにある。

「すぐに向かうわけではありません」

 ミラは言った。

「まずは、あなたの腕を安定させます。それから、必要な情報を整理して……兄に手紙を書くことも考えています」

「兄?」

「王立魔術院にいる兄です。ライヘル・コックスといいます」

 エリオットは少し目を細めた。

「コックス……」

「ご存じですか?」

「名前だけは。王立魔術院に若い研究員がいると聞いたことがある。直接会ったことはない」

「そうですか」

 ミラは少しだけ不思議な気持ちになった。

 聞けばエリオットは兄とエリオットは同い年らしい。

 片方は王立魔術院で研究員となり、片方は王都騎士団の有望株だった。

 王都という同じ場所にいながら、二人はおそらく遠くから互いの名前だけを知っていた。

 そして今、ミラを介して繋がろうとしている。

「兄には、まだ何も伝えていません」

「なぜ」

「確証がないからです。それに……」

 ミラは言いよどんだ。

 エリオットはじっと彼女を見ている。

「あなたのことを、本人の許可なく詳しく書くべきではないと思ったからです」

 エリオットはわずかに目を見開いた。

「俺の許可?」

「はい。これはあなたの身体のことです。あなたの過去にも関わることです」

「……王都では、俺の腕は記録になっていた」

 その声は淡々としていたが、奥に苦いものが滲んでいた。

「治療不能。右腕機能不全。魔力路損傷。そんな風に書かれていたのだろうな」

 ミラは静かに言った。

「私にとって、あなたは記録ではありません」

 エリオットの瞳が揺れた。

「私の患者です」

 部屋の中が静かになった。

 外から子どもたちの笑い声が聞こえた。誰かが井戸端で水を汲む音もする。

 普通の村の、普通の日常。

 その中で、エリオットはしばらくミラを見ていた。

「……君は、時々、ひどく真っ直ぐなことを言う」

「そうでしょうか」

「そうだ」

「すみません」

「謝るな」

 エリオットは小さく息を吐いた。

「兄に書く時は、俺に見せてくれ」

「もちろんです」

「必要なら、俺の名前を出していい」

「いいんですか」

「ああ。俺自身のことなら、俺も知る必要がある」

 ミラは頷いた。

「分かりました」

 その時、扉の外から声がした。

「ミラさん、いるかい?」

 村長だった。

 ミラが扉を開けると、村長は一通の封書を持っていた。

「次の村へ手紙を書くと言っていただろう。隣町へ向かう者が昼過ぎに出るから、それに間に合えば届けられる」

「ありがとうございます。すぐ書きます」

 村長はエリオットにも気づき、少し気まずそうに頷いた。

「エリオット、腕はどうだ」

「少しずつだ」

 短い返事だった。

 しかし、村長はそれだけで嬉しそうに目を細めた。

「そうか。少しずつか」

「ああ」

「……よかった」

 その言葉に、エリオットは少しだけ視線を逸らした。

 村長が去ったあと、ミラは机に新しい紙を広げた。

 エリオットは立ち上がろうとする。

「邪魔になるなら帰る」

「いえ。少し待っていてもらえますか。診察後の薬草茶を出します」

「必要ない」

「眠れていないので必要です」

「……分かった」

 エリオットはもう反論しなかった。

 ミラは次の逗留先への手紙を書き始めた。

 急患が出たため、到着が遅れること。

 熱病対策用の薬草を先に送ること。

 症状が重い者がいれば隣町の治療院へ搬送してほしいこと。

 可能な限り早く向かうつもりであること。

 書きながら、ミラは胸の奥が少し痛んだ。

 待たせてしまう。

 それは事実だ。

 けれど今、この村を離れることもできない。

 ミラは手紙の最後に、丁寧に署名した。

 その様子を、エリオットが黙って見ていた。

「次の行き先があるんだな」

 ぽつりと彼が言った。

「はい」

「いつ行く予定だった」

「最初の契約が終わったら、すぐに向かう予定でした」

「……そうか」

 エリオットの声が少し低くなる。

 ミラは顔を上げた。

「ですが、滞在を延長します」

「俺のために?」

「あなたの治療と、村の診療のためです」

「同じことだ」

「同じではありません」

 ミラは真っ直ぐに彼を見た。

「誰を診るか、どう責任を取るかは、私が決めます。エリオットさんが勝手に、私の仕事の優先順位を決めないでください」

 エリオットは黙った。

 その表情には、驚きと、少しの痛みが浮かんでいた。

「俺は、君の足を止めている」

「違います」

「違わない」

「違います」

 ミラは重ねて言った。

「私は治療師として、今この村に残る必要があると判断しました。あなたの右腕は、途中で離れていい状態ではありません」

「だが、次の村にも患者がいる」

「だから手紙を書きます。薬も送ります。必要なら、別の治療師への紹介状も書きます。できることはします」

「……」

「全部を一人で背負えるとは思っていません。でも、目の前の患者を置いていくこともできません」

 エリオットは何も言わなかった。

 ミラはふと、少し言い過ぎただろうかと思った。

 けれど、ここは譲れなかった。

 エリオットは自分の価値を低く見積もりすぎる。

 自分の腕の治療が、誰かの負担になっていると思いすぎる。

 それは、ミラには少し腹立たしかった。

 やがてエリオットは、静かに言った。

「君は、怒ると怖いな」

「怒っていません」

「怒っている」

「……少し」

 エリオットの口元が、わずかに緩んだ。

「そうか」

「笑うところですか」

「いや」

 彼は左手で右手首の護符に触れた。

「ただ、少し安心した」

「安心?」

「君は、俺のためだけに残るわけじゃないんだろう」

「はい」

「それなら、受け入れられる」

 ミラは胸の奥が少し痛むのを感じた。

 彼は、ミラに残ってほしくないわけではない。

 ただ、自分だけが理由になることが怖いのだ。

 自分のせいで誰かを縛ることを、恐れている。

「エリオットさん」

「何だ」

「私がこの村に残る理由の中に、あなたの治療が含まれていることは否定しません」

 彼の目がミラを見る。

「でも、それは負担ではありません。私の仕事です」

 ミラは少しだけ迷い、柔らかく続けた。

「それに、私が諦めたくないと思っていることでもあります」

 エリオットの表情が止まった。

 ミラは自分で言ってから、少し慌てた。

「治療を、です」

「……分かっている」

 エリオットは視線を逸らした。

 その耳が、少し赤い。

 ミラも、なぜか顔が熱くなった。

 外では村長が誰かと話している声がする。穏やかな昼下がりだというのに、診療所の中だけ妙に落ち着かない。

 ミラは咳払いをして、手紙を封じた。

「薬草茶を淹れます」

「ああ」

「蜂蜜を入れますか」

「甘いものはあまり」

「眠りやすくなります」

「……なら、少し」

 ミラはかまどに火を入れ、薬草茶を淹れた。

 差し入れの蜂蜜を少しだけ溶かす。香りがふわりと部屋に広がった。

 エリオットは受け取った木の杯を左手で持った。けれど、右手がかすかに動く。

 ミラはそれを見逃さなかった。

「右手を添えてみますか」

「いいのか」

「軽く支えるだけなら」

 エリオットは慎重に右手を杯へ近づけた。

 指先が木の表面に触れる。

 ほんの少し、支える。

 左手がほとんどの重さを持っている。右手は添えているだけだ。

 それでも、エリオットの表情が変わった。

「……温かい」

「分かりますか」

「ああ」

 彼は杯を見つめた。

「分かる」

 ミラは静かに微笑んだ。

「それも記録します」

「杯を支えられた、と?」

「はい」

「布をつまんだ次は、杯を支えた記録か」

「大事な記録です」

「そうか」

 今度は、エリオットも否定しなかった。



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